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「あってはならない」は、あってはならない

最近、いろいろなところで不祥事やら事故やらが次々と明るみに出てくるが、そのたびに「あってはならないこと」というコメントが聞かれる。

当然行っておくべき点検を怠っていた、食品を安く作るために本来とはちがう混ぜものをしていた、自分のミスを棚に上げて他人に負担を強いた、その他もろもろ。特によく聞かれるのは、テレビ。使うのは、テレビに出てくるニュースキャスターや「識者」の方々、それに政府や政治家の方々だ。

こういう影響力の強い人たちがさかんに連発しているせいか、私たちにもこの思考回路はすっかりなじんでしまっている。もちろん実際にとんでもないことがたくさん起きているわけだから、当然といえば当然の話で、それ自体に異論はないのだが、あまりに頻繁になると、ちょっと待てよと言いたくなる。それだけでいいのかという気がしてくる。

「あってはならない」の連発が気になるのは、それが一種の思考停止ワードだと思うからだ。このことばが出てきたとたんに、人々の関心はそこに集中する。そうなるとそこで前向きな思考が停止してしまい、あとは起こった問題を単にうさ晴らしのネタとして消費することしか残らない。

しかし、それで何がしか溜飲の下がる思いを味わうことに成功したとしても、それだけでは問題は解決しないのだ。とすればむしろ、「あってはならない」ということば自体が問題であるといってもよいのではないかと思う。

まず、「あってはならない」論はしばしば、原因追求に関する思考を停止させる。本来、望ましくないものごとに対して、「なぜそんなことが起きたか」「なぜそんなことをしたのか」を考えることはきわめて重要だ。そのためには、その対象を冷静に、客観的にみていく必要がある。

しかし「あってはならない」という考えは、ものごとを「起こるべき」「起こるべきでない」という特定の価値観に基づいて分類しようとするものだ。本来、本当に起こり得ないようなしくみになっていたか、なぜ問題が見逃されたのかをこそ見極めなければならないのに、最初からバイアスがかかっていたのでは、まともな原因追求は難しくなってしまう。

また、「あってはならない」論は、責任の追及に関しても思考を停止させる。よくある論調では、「あってはならない」ことの原因はたいてい、非常識な個人か、私欲にとらわれた大企業経営者か、怠慢な政府・政治家に帰着されるものと相場が決まっている。

そういう人たちはいずれも「悪い奴ら」だ。だから、彼らがどうしてそうした作為や不作為に至ったのかを考える必要はない。けしからん奴らの事情を斟酌するなどもってのほかだ。このように考えると、議論はきわめて単純になる。「悪者」は逮捕すればいいのだ。辞めさせればいいのだ。私財を没収すればいいのだ。それができないとしたら、厳しい対策をとらない政府が悪いのだ。

いずれにせよ、「責任」は誰か自分でない人、どんなに罵倒してもかまわない誰かにある。私たちは安心して、その悪者を攻撃すればいい。私たちに責任はない。責任を負うべきなのは他の誰かで、彼らがしっかりやってくれればいいはず、というわけだ。

しかしよく見てみると、世の中にはさまざまな拮抗する力、相反する利害があり、多様な立場や価値観の人々がいる。私たちの社会は、誰にも万能の力を与えず、バランスをとり、互いに監視・牽制させ、定期的に見直しを行うかたちで、複雑な状況を処理するしくみを発達させてきた。

さまざまな問題も、実際にはそうしたバランスのとり方や見直しのタイミングの問題ととらえたほうがいい場合が少なくない。「悪い奴を懲らしめればいい」といった単純な問題ではないのだ。

さらに、「あってはならない」論は、リスクに対する思考を停止させる。世の中に望ましくない事態というのはさまざまあるが、それが「あってはならない」ことであればあるほど、その発生防止、再発防止は重要なテーマのはずだ。

それはまず、「起こりうる」ことであることを認識するところから始まる。どんなときに、誰が、どんなことをして、どんなことをしないと起きるのかをふまえて、そうならないために誰が、どんなふうに、何をすればいいか、何をしてはならないかを決め、それを続けていくためのしくみも合わせて作り、維持していかなくてはならない。こうした態度の根源は、「あってほしくないが起こりうる」というリスク認識だ。

しかし「あってはならない」からスタートしてしまうと、このリスク認識を持つことはできなくなってしまう。リスクは「誰か」の責任で完全に除去されるはずのものだからだ。

要するに、「あってはならない」論の問題は、世の中を「守られる側」と「守る側」、「善人」と「悪人」といった具合に単純化して分類する一種の二分法として使われるケースが少なくないことではないかと思う。


本来私たちを守るべき「誰か」がその責務を果たさないから、私たちが苦しまなければならないのだ、と。そこには、私たちが社会に対して主体的に関わる態度は含まれていない。

しかし実際には、世の中はそんなに完全でも安全でもない。私たちの社会を守っていく「責任」の一端は、私たち自身や社会全体で負うべきケースが少なくないのだ。私たちは、程度の差こそあれ、世の中で起きていることに対して、完全に無関係であることはできないというのと同じ程度に、安寧であることも無謬であることもできない。

もちろん、たとえ私たちにやるべきことがあるとしても、それは「誰か」の責任を否定したり減らしたりすることではない。それらはまったく別のものだ。ただ私たちは、社会の担い手として主体的に関わっていくべきであり、「誰か」を監視すること、そのためのしくみを作っていくことまでが私たちの責任の範囲に含まれるのではないかといいたいだけだ。

「あってはならない」論にかまけて気楽な被害者の地位にしがみついている限り、逆に「あってはならない」事態から逃れることはできない。その意味で、安易に「あってはならない」という論法を乱発することこそ、「あってはならない」のではないだろうか。



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