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社会科学における「技術」と「研究開発」

社会の発展における「技術」の重要性、および技術を進歩させるための「研究開発」の意義を否定する人というのはあまりいないのではないかと思う。現代社会は、その隅々にわたるまで、数多くの技術に支えられている。技術は人間の可能性の範囲を規定する。

したがって、技術が変われば人の行動が変わり、社会が変わる。これまでできなかったことができるようになり、これまでよりうまくできるようになり、そしてこれまでよりなんらかの意味でいい結果につながると期待されるわけだ。そして技術の進歩は研究開発によってもたらされる。つまり、社会の発達のかなりの部分は研究開発に強く依存しているということになる。

ここまでを読む中で、「技術」ということばから、理工系や生物系、より俗な表現でいえばいわゆる「理科系」の技術を思い浮かべなかっただろうか。コンピュータで高度な情報処理を行う技術、難病を克服する画期的な治療の技術、人の力を何倍にも拡大する機械を製造する技術、環境負荷を小さくしながら大きなエネルギーを生み出す技術、その他もろもろ。

もちろんこうした理科系の技術は実際に役に立ち、私たちの社会を大きく変化させてきた。重要であるからこそ、これらの技術の研究開発には多くの努力が払われ、多くの資金が投入されている。

しかし、社会にとって有益な「技術」は、こうした「理科系」のものばかりではない。社会科学分野においても、技術はきわめて重要な役割を果たす。多くの社会科学において、実験や調査、データの整理などのために多くの数理技術やコンピュータ技術が用いられているし、技術やその変化が人やその集団、コミュニケーションのとり方や社会構造などを変えていくことについても、さまざまな研究が行われ、知見が蓄積されているが、それは本題ではない。

ここでとりあげたいのは、そうしたもの以外にも、社会科学において「技術」と呼ぶべきものがあるのではないかという点だ。たとえば契約のような、資源配分や意思決定等のやり方に関するもの。

簡単な例を挙げよう。新しいオプションのような、これまでになかったタイプの金融商品を考えたとする。リスクやリターンの特性など、その商品設計は、一般的な経済学、経営学における研究の成果だ。しかしこれを実際に使えるものとするためには、契約の個々の条文を適切に書いて、設計された特性を当事者間の具体的な権利義務として発生させる必要がある。

これは、さまざまなパーツを組み合わせて機械を作り出す技術や、プログラム言語のさまざまな表現を組み合わせてコンピュータプログラムを作り出す技術と同様、まぎれもなく技術の一種だ。同じ意味で、法令や選挙の方式、各種委員会の組成・運営の方法なども技術であるといえる。

社会科学分野におけるこうした技術を仮に「社会の技術」ないし「社会技術」とでも呼ぶことにしよう。自然科学分野でいえば、研究開発の成果を製品として販売していくための量産の技術、物流の技術等に相当する。これらは製品を開発・製造するのと同じくらい重要であるはずだ。同じことが社会技術についてもいえる。社会をよりよくするのが社会科学の目的であるとするなら、社会技術はそれを実現するために必須の存在だ。

しかし、新しい社会技術を生み出すべき研究開発のプロセスは、その重要性に見合ったシステマチックなアプローチがとられているとは必ずしもいえない。社会技術の多くは、必要に迫られた実務家によってその都度付け焼刃的に開発され、さしたる事前や事後の検証もなしに使われる。開発された技術がその組織を超えて広まることは少なく、また実現すれば有益であることがわかっていても、失敗を恐れるあまりにその開発自体が断念されることも少なくない。

もちろん、実務家が開発すること自体が悪いわけではない。そもそも研究者が実務家より優れた開発能力を持つという保証はない。むしろ、実務により近い領域では、実務家のほうがはるかに有能だろう。

しかし、利益を求めて競争する企業のような実務家の関心はすぐに実用化が期待できそうなものに向きがちであり、またじゅうぶんな検証を期待することも難しい。また、特に社会技術は一般的に外販が難しいこともあり、開発した機関の中で使われるのみで、外部で活用されていく可能性は低い。

そうした意味では、大学などの研究機関が、中立的な資金をもってより広い視点から充分な検証を行いつつ研究開発を進め、それを社会全体の知的資産として還元していくことには大きな意義がある。自然科学分野の研究開発において、大学で基礎研究が、企業で応用研究が多く行われているように、社会技術に関する研究開発でも、企業等の実務家と研究機関との間での役割分担が必要ではないかと思う。

この問題については、社会技術の重要性にあまり目を向けてこなかった研究者の責任が大きい。社会科学の研究成果が実社会で生かされるためには、それを実現する社会技術も必要であるはずだ。「個人技」や「手弁当」に頼るのはもう限界だ。よりシステマチックに、社会全体で研究開発を進め、その成果を共有していくアプローチを模索するべきときが来ていると思う。

しかし同時に、予算配分面でも考えるべき点はあろう。大学等の研究機関が社会技術の研究開発に取り組むためにどのくらいのコストが必要なのかは、私にはわからない。社会技術分野にどのくらい配分されているのかについても知らない。

ただ、「現場」に身を置く者としては、現状では不足しているのではないかという実感がある。少なくとも総額レベルでいえば、社会科学分野の研究者は、研究費の配分においてあまり有利とはいえない立場にあり、それゆえに社会技術の開発に充分な手間を割けないという事情もあると思う。

平成19年度の科学研究費補助金の配分をみてみると、直接経費に関する新規採択分と継続分の合計額1,455億円のうち、人文・社会分野はわずか11.9%の174億円、採択件数ベースでみても、合計48,029件のうち19.7%の9,462件にすぎない。一方、ややデータが古いが、国立情報学研究所の平成14年調査によれば、国内の学術研究者のうち、人文・社会系と理工系の研究者数比は約35:65であるという。学生数の分野別比を文部科学省の平成14年調査でみると、人文・社会系と理工系の比は逆転して約60:40となる。

もちろん自然科学と社会科学では研究に必要なコストや人員が異なるという事情もあるので、これだけで何かを語るのは危険だ。しかし、自然科学において日本が世界をリードする分野が数多く存在するのに対して、社会科学においては必ずしもそうではないのは、こうした背景もあるかもしれない。少なくとも、新しい社会技術の導入に関して、多くの場合日本が諸外国に対して遅れをとってしまうのも、企業や政府が「慎重」であるからばかりではないように思う。

社会技術は、社会科学分野の研究成果が実際に活用されるための手助けをする。その巧拙は、私たちの社会の発展に直結するのだ。そのあたりをふまえておかないと、せっかくの研究成果が宝の持ち腐れとなってしまうかもしれない。逆にいえば、この領域は、社会を大きく発展させるカギを握るのではないかとも考える。

 

【関連情報】

○<アリアドネ>
 心理学、言語学、哲学、経済学等、さまざまな分野の学術サイトへのリンクや
リソースリスト等
http://www.ariadne.jp/


○国内人文系研究機関WWWページリスト
http://www.sal.tohoku.ac.jp/~gothit/zinbun.html


○メディア・リテラシー研究所
http://www.mlpj.org/


○数学屋のメガネ 「社会科学的な法則性と自然科学的な法則性」 2007/08/22
http://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/51233195.html


○数学屋のメガネ 「社会科学の科学性について」 2007/02/27
http://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/50925517.html


○数学屋のメガネ 「社会にも法則はあるか」 2007/02/23
http://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/50921412.html

 


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