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医療人の資質 医療に携わる者の本分

「惻隠の情(そくいんのじょう)」という言葉があるが、この言葉は医療の世界になぞらえて考えると単に同情や哀れみの心を意味しているわけではなく、たとえ自分の利益や生命が冒されそうになっても相手の立場を第一に考え、行動するというプロ意識を表していると言えるのではなかろうか。

こんな話を聞いたことがある。とある地方の小さな病院での出来事だが、深夜に若い女性が救急搬送されてきた。救急隊員の話では大量の薬を飲んだらしいが詳しいことはまったく判らないという。

事務当直者から連絡を受けて夜勤の病棟看護師が外来におりてくる。少し遅れて当直医も駆けつける。比較的呼吸は安定していたが、その女性の意識レベルは低く痛み刺激にも反応がハッキリしなかった。発見した家族が付き添ってきていて以前にも同じようなことがあったと話す。その時は市販の睡眠薬を飲んだらしい。通院していた精神科の病院があったらしいがどんな薬を服用していたかは確認できていない。飲んだ薬物の量も種類も特定できず意識のない状態から判断して、当直医は直ちに気道を確保して夜勤のナースに胃洗浄の準備を指示した。

同じころ、外科病棟では術後の患者が痛みを訴えてナースコールを押し続け、眠れないから薬がほしいという患者が内科のナースステーションに来て訴えていた。

対応に当たるナースは状況を判断して薬物投与が必要かどうか医師の判断を仰がねばならない。当直医には次々と指示を仰ぐ看護師からの問い合わせが入る。それらを適切に判断して指示を出しながら医師は胃洗浄の処置に入る。何度か洗浄を繰り返すと胃に入る生理的食塩水の刺激と喉を通る管のためか眉間にしわを寄せて苦しそうな表情を浮かべる若い女性。医師はその様子を見て胸をなでおろす。やがて意識は戻ると直感したからだ。

そうこうしているうちに胃洗浄の処置を終えた当直医は病棟からの呼び出しを受けて急いで階段を駆け上がってゆく。

救急搬送されたこの若い女性は、胃洗浄のあと内科の集中治療室に移された。幸いなことに早い処置が効を奏して、体温も上がり痛み刺激にも反応し始めた。翌日の午後になって意識を取り戻した彼女は何の反省の言葉もなく、その次の日には若い男が迎えに来て派手な服装に着替えて病院をあとにしたという。

後日聞いた話では、このときの当直医には小学生になったばかりの娘がいて、何が原因かわからないが学校に行きたがらず不登校を続けており悩んでいたという。当直明けの午後には娘の担任と面談があったのだという。一緒に胃洗浄をした当直の病棟看護師も、熱を出して学校を休んだ一人娘を家に残しての当直だった。しかし、二人ともそんな素振りは少しも見せず職務に集中していた。

話は変わるが、2001年9月11日の出来事は記憶に新しい。炎上する世界貿易センタービルに取り残された人々を救出するために命がけの救出作業に当たった消防士、警察官の献身的態度は全世界から賞賛された。ついに帰らぬ人となった者も多く、彼らの行動はまさにプロとしての使命感が危険な現場へと向かわせたと言える。

長らく小紙「医療新報」の編集顧問を務めてくださった高橋長雄先生(札幌医科大学名誉教授)は「惻隠の心」と題した随想を小紙に寄せている。先生はその中で「惻隠」を次のように表現している。

「惻隠を同情、哀れみとイコールで結んでしまっては正確な意味が伝わらない。同情や哀れみは患者から離れた位置からでも静かに思いをめぐらせることも出来るが、惻隠の心は心が動くと同時に、あたかも打てば動く腱反射のように否応なしに行動が発動してしまう」。

つまり、あれこれ考えてから行動するのではなく、瞬間的に自分の持てる最善の力を患者に注ぐのが医療者たる者の資質であると説いているのである。

国民の生命を守るはずの警察官が殺人を犯したり、政治家が不適切な言動で辞職に追い込まれたりという報道に接すると、おのれ可愛さのあまりに…という言葉を思い起こす。誰だって自分のことを第一に考えるのは当然だし、自分を犠牲にしろというつもりは毛頭ないが、自ら進んで公の職に就きその仕事で生計を立てるとなると話はだいぶ違ってくる。

医療人としての資質は、自分が持ち得るギリギリの能力を惜しみなく発揮することができる事で、それが守るべき本来の生き方であってほしいものだ。

 

【関連情報】

○夢夢boubou 「惻隠の情」 2007/03/05
http://boubou.blogzine.jp/boubou/2007/03/post_ebc6.html


○ブログ版:春日井教育サークル 「惻隠の情」 2006/11/13
http://take-t.cocolog-nifty.com/kasugai/2006/11/post_8412.html


○Shining-Speaker─田舎から物申す─
 「ジャワ島の地震と惻隠の情」 2006/05/31
http://blog.livedoor.jp/s_speak/archives/50533539.html


○ケ・セラ・セラ que sera,sera 「惻隠の情」 2006/04/03
http://new-eito88.blogzine.jp/que_serasera/2006/04/post_ebc6.html


○医薬品・化粧品・食品に関する情報提供 「古き良き日本???」2006/04/02
http://yakuji.exblog.jp/2910192/


○hira333の日記 2006/03/30
 「コミュニケーション能力は惻隠の情」
http://d.hatena.ne.jp/hira333/20060330


○KONA WIND ─南の風─IBS学院長・南 徹ブログ
 「惻隠の情」 2006/01/31
http://ibs-gaigo.blog.ocn.ne.jp/minami/2006/01/post_e892.html

 


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