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手術と麻酔 意識と記憶の関係

 前回は、当時96歳であった塩谷信男さんとの対談記録の中から、氏が提唱する「正しい心の使い方」という考え方をご紹介させていただいた。対談の折、「この考え方はね、確かに私が編み出したものです。しかしね、広めてくれる人がいるならば誰の名前を使っていただいても結構なんです。なぜならね、万人がこの考え方を実践すれば真の平和がやって来ますの。だから私のことはどうでもいいの」と、何とも言えない暖かいまなざしで語りかけてきた氏の姿が、今も思い浮かぶ。

 何人かの読者の方から「塩谷先生の近況を知りたい…」とのご連絡をいただいたが、残念ながら私はその後先生にはお会いできていない。2002年(塩谷先生100歳の時)には中野サンプラザで2000人以上の聴衆者を前に「百歳記念講演会」を開催され、元気なお姿を見せた。その年の五月にはNHKの番組「100歳バンザイ」にも出演しているのでご存知の方も多いと思う。

 しかし、それからしばらくして脳梗塞がもとで転倒、大腿骨を骨折されたそうである。塩谷先生のご子息で、NPO法人アンチエイジングネットワーク理事長でもある北里大学名誉教授の塩谷信幸氏に最近のご様子についてお聞きしたことがあるが、体調を崩されてからは熱海を離れ都内で療養されているとのお話しであった。ご恢復を祈るばかりである。


 さて、早いものでこの連載も10回目となりました。未熟な小生の話に毎回お付き合いくださる読者の方々には心から感謝しています。今回は私たちが普段あまり垣間見ることも少ないと思われる医学会についてお伝えしたいと思う。

 本来、医学会は医師たちが日ごろの研究や業績を発表するだけでなく、互いに最新の医学技術・情報を交換しあい知識や経験を積むための人的交流の場でもある。また、日頃なかなか会うことの出来ない恩師や仲間たちとの交友の場としても学会は医師たちにとって重要な場といえる。

 医学に関する学会の数はその専門分野ごとに存在するので膨大な数になる。学術情報センターが行った平成10年度の調査結果では国内の医学系学会の総数は2677ほどあるというが、その中の一つが先日都内で開催されたので取材してきた。その一端をご紹介したい。

 それは麻酔科の医師を中心に構成される日本臨床麻酔学会第27回大会(小川節郎会長・日本大学医学部麻酔学教室)である。この学会で私が注目したのは、「麻酔科の本質」と題して行われた松木明知(弘前大学名誉教授)氏の特別講演である。この演題名は松木氏の著書名(克誠堂出版2002年)でもあり、医師としての人間性を高めることが麻酔医には不可欠であることを説く貴重な考え方が示されている。

 私たちが病気やケガで手術を受けるとき、手術室の中には医師以外にもさまざまな専門スタッフが立ち働いていて、その手術がうまく成功することに皆一様に努力しているわけだが、中でも麻酔担当医は手術前からその準備に入っている。

 時には手術の前日から病室の患者さんを訪れて手術や麻酔についての説明をしたりすることもある。麻酔は浅すぎても深すぎてもいけない。手術の進行に合わせて麻酔の深さ(一般に麻酔深度と言っているが、この場合は特に鎮痛度を重視する)を調節する。どんな手術でもたいてい麻酔医は患者さんの頭の真後ろに陣取る。こうすることで患者さんの表情をしっかりと読み取ることが出来るからである。

 いざ手術が始まれば血圧や脈拍、血中酸素濃度などのモニターを監視しながら患者さんの様子から目を離さない。全身麻酔下では患者さんは何も訴えることが出来ないからである。痛みを感じれば顔をしかめ眉間にしわを寄せるかも知れない。また麻酔が深すぎれば血圧が下がり危険な状態にもなる。これらの患者さんの表情をバイタルサインと呼んでいるが、麻酔科医はこのバイタルサインをよむ専門家であり、手術室の中では唯一患者さんに代わって患者さんの意思を外科医に伝える役目をしているのである。

 松木明知氏は2期にわたって日本学術会議の委員をされ貴重な業績を残されている。講演の中で松木氏は会場の医師たちに「生きているもの」から「生きていること」へ着眼点を移してほしいと訴えておられた。

 この「もの」から「こと(ひと)」へのパラダイムシフトはあまりにもマニュアル化された現代社会への警鐘とも受け取れ、医師という存在を「職能集団」と表現した松木氏の考え方に感銘を受けたのである。

 私がお世話になった麻酔科の先生方の多くは引退され、すでに鬼籍に入られた方も多い。しかし、その教えは今も私の心の中に生きているし年齢とともに理解が増しているように思う。そしてその一言一句の重みを改めて噛みしめながら生きて行くのだと自分に言い聞かせている。人は亡くなってこの世から消えても、他人の「心の中」で生き続ける人がいることを改めて知った。


【関連情報】

○ITmedia アンカーデスク 2007/10/12
 「カプサイシンで麻酔薬? ─局所麻酔の新しい可能性」
http://www.itmedia.co.jp/anchordesk/articles/0710/12/news088.html

 


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