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専門家の責任と期待のインフレーションについて

2008年8月20日に福島地裁が言い渡した、いわゆる大野病院事件の判決に関連して、新聞など各メディアが大きく反応している。福島県立大野病院で2004年、帝王切開手術を受けた女性(当時29)が亡くなった事件で、執刀医が業務上過失致死と医師法(異状死の届け出義務)違反の疑いで逮捕、起訴されたものだ。まず、亡くなった方に対して心から哀悼の意を表したい。

この事件については、医療行為に対する警察や司法の介入として医療関係者が当初から強く反発していたのをネットで見聞きはしていたが、判決に対するマスメディアの論調がいつになく「謙虚」だったのが印象的だった。記憶がちがっていたら申し訳ないが、確か事件当初はもっと医師側に対して厳しい論調ではなかったか。「ガ島通信」の藤代さんがそのあたりを書いておられて参考になる。(http://d.hatena.ne.jp/gatonews/20080820/1219200745)医療の問題であると同時にメディアの問題でもあるというご指摘だ。

おかげで改めて気づいた。この問題に関して当初から感じていた、ある「既視感」について。

医療問題としてのこの事件の論点は、第一義的には、これが責任を問われるべき医療ミスなのか、ということになろう。専門家である医師が、当時の状況下で「最善」(カギカッコをつけた理由は後記)を尽くしたかどうか。患者側が「期待」する水準の医療サービスが提供されたのか。

その上に、この事件がひとつのきっかけになったともされる医療崩壊問題に関する論点が重なってきている。医師が通常の医療行為の中で行った判断(少なくとも医師側はそう主張する)が結果的に「最善」(結果からすればそう判断せざるを得ないだろう)ではなかったことによって逮捕されるようなリスクがあるなら、そもそも医療に携わる人自体が減り、医療サービス自体が崩壊してしまう地域が出てくるという論点だ。別にこれだけが理由というわけでもないし、こういう大きな視点を個別の事件に関する議論に対して持ち込むのはいささか「代理戦争」的な観が否めないが、実際医療現場に走った衝撃はかなりのものだったようだから、ある程度はやむを得ないのだろう。

これが「代理戦争」になってしまうのは、別な目でみれば、これまで私たちがこの問題に対してちゃんと考えてこなかったからだろう。私たちの社会がやらなければならないのは、この特定のケースに関する判断が適切かどうかではなく(それは当面裁判所に任せよう)、もっと大きく、一般化された話ではないか。つまり、私たちの社会の中で、「専門家」と「素人」との関係をどう考えるべきかということだ。

私たちの社会は、分業によって成り立っている。社会を運営していくために必要な知識や技能のすべてをすべての人が身につけることは事実上不可能だし、仮にできたとしても効率的ではないからだ。そしてそれらの中には、難易度の差が存在する。ある種の職業は、相当時間の教育訓練によって多くの人が対応可能だが、また別の職業では、教育訓練だけでなく、ある程度の適性と、こうした人たちに一定のたがをはめるための社会的、制度的しくみが必要となる、ということだ。一般的には、後者のような職業の人々を「専門家」と呼ぶ。

私たちの社会は、数多くの、そしてさまざまな分野の専門家によって支えられている。それらの専門家に要求されるスキルのレベルや社会の中で必要とされる人数、その重要度、資格制度の運営・モニタリングコストなどは、場合によりさまざまだ。当然、それぞれのジャンルに応じて考えていかなければならない。しかしそれ以前に、大きな原則めいたものがあるのではないか。全体に共通する、あるいはだいたい全員が合意できる共通ルールや認識といったものがあるのではないか。考えてみるとごく当たり前のことのはずなんだが、もう一度整理しておきたい。


(1) 専門家は、その専門分野以外の分野に関しては素人である

人間は全知全能ではない。ある分野において専門的な知識やノウハウを持っている人でも、他の分野では素人であることは当たり前にある。プロ野球選手は(たいてい)脳神経科学の専門家ではないし、魚市場の仲買人が古美術鑑定の専門家である確率はそう高くないだろう。同じ意味で、(少なくとも多くの)警察官や検察官は(もちろん裁判官も)医療の専門家ではないし、マスメディアで記事を書いているほとんどの人も医療の専門家ではないはずだ。少なからぬ国会議員も行政の専門家ではない(恐ろしいことに、中には政治の専門家ですらない人もけっこういるらしいが)。

どの分野についても、専門家の数は社会全体の中では一部を占めるにすぎない。教育訓練などのコストを考えれば自然にそうなるし、“by definition”(当然)の話ではないかといわれればそれまででもある。国民の多くは、政治や行政の専門家でも、法律の専門家でも、医療の専門家でも、不動産取引の専門家でも、教育の専門家でも、国際金融取引の専門家でも、防災の専門家でも心理学の専門家でも稲作の専門家でも捕鯨の専門家でもない。自動車の運転免許ぐらいになるとかなりの割合の人が持っているから「専門家」という表現には必ずしもそぐわないかもしれないが、野放しにされた場合の弊害を考えて免許制度が設けられているという意味で、この文脈では一種の専門家ととらえていいと思う。それはさておき。

専門家の養成にそれなりの時間とコストがかかる以上、必然的に分野の細分化が起きる。ひとつのことをやるのでも、複数の専門家が関与するケースがよくある。たとえば上記の裁判自体は、基本的に法律問題を法律の専門家が扱うものだが、それが対象としているのは医療問題であり、担当した裁判官も、医療に関してはおそらく素人(少なくとも医師と比べれば)のはずだ。もちろんそのために医療関係者を証人に呼んだりしたのだろうが、最終判断は裁判官が行っている。適否はともかく、私たちの社会はそうやってできているということだ。


(2) 私たちの社会は専門家の存在を必要とする

私たちの社会が分業を行っているのは、そのほうが互いに都合がいいからだ(なぜそうなるのかわからない方は経済学の入門書をお読みいただきたく)。私たちの今の生活水準は、専門家がそれぞれの分野で、それなりの水準の働きをしてくれていることが大前提となって保たれている。仮に無人島に1人流されたとしても、私たちの多くはロビンソン・クルーソーのようにはできないだろう。政治家も官僚も、医師も新聞記者も教員も、自衛官も証券トレーダーも農家の方も、それぞれの分野でがんばっていただければ、より世の中が豊かになると、まあ単純化すればそういうことだ。現状はもちろん完璧ではないだろうが、そこそこの水準に達しているということは、少なくともそこそこの水準でこれが実現できているからということになる。

もちろん専門家が備えなければならない能力や提供しなければならないサービスの「期待」される水準は、場合によって異なる。重大な結果を引き起こすおそれのある領域であれば、より高い水準が求められるだろう。しかしそのために高いコストが要求されるとなると話は別だ。それに、数の問題もある。社会として一定数の専門家を必要とするのであれば、その数を確保しなければならないから、その限りにおいて質の問題は妥協を強いられる。仮にイチローがあらゆる面で理想の野球選手であるとしても、イチロー9人でチームを作ることはできない。イチローにふさわしい年俸を9人分用意するだけでもたいへんだろうし、そもそもイチローは9人もいないのだ。「すべてのプロ野球選手はイチローと同水準でなければ」という基準を設けたら、そもそもプロ野球は成立しない。同様に、仮に世の中に「名教師」と呼ばれるような教員がいたとしても、すべての教員にそうした「最善」の水準を求めることは不可能だ。高すぎる「期待」は、皆が不満を抱える結果をもたらすから、むしろ望ましくない。


(3) 専門家は素人によるコントロールを受けなければならない

専門家は素人に比べて、当該分野ではより多くの情報や知識を持っている。したがって素人に比べてよりよい判断ができる場合が多い。その意味では、一般論としては、専門家の判断に対して素人が口をはさもうとしても、あまり有効でないケースが少なくないだろう。

しかし、専門家をまったくの「野放し」にしておくことは弊害がある場合が少なくない。なんらかの歯止めが必要なわけだが、このとき、専門家自身で行うものだけではなく、外部の素人に委ねる領域が必要な場合が多い。いくつか理由がある。典型的なのは、専門家が自らの利益を守るために全体の利益を犠牲にすることを防ぐためだ。古今東西、専門家がその専門知識などを使って悪事を働くケースは枚挙に暇がない。もちろんこれは、一般に専門家が信用できないということではなく、監視のない状態に置かれれば、専門家であろうとなかろうと、人は一定の割合でそうした行動に走るということなのだろう。問題は、専門家の場合、その行動が適切であったかどうか、外部からは判断がつきにくいということだ。一定数の同業者がいれば、同業者に判断してもらう手もあるだろうが、共通の利害を抱える同業者同士がかばいあう可能性についても計算に入れておく必要がある。

また、専門家の判断はえてしてその専門分野に偏りがちだ。より広い視野から見た場合にはもっと別の判断のほうが適切だったという場合もあるだろう。車庫が狭いと自動車ディーラーに相談すれば、小さな車を薦めるだろうが、ひょっとしたら電動自転車で充分で、そのほうが目的にかなっているかもしれない。さらに、「正しい」判断よりも「納得がいく」判断が求められる場合というのもあるように思う。この2つは一致する場合が多い(人間が合理的であればそうだろう)が、実際には必ずしもそうとは限らない。合理的に考える専門家が求める「正解」が、一般人にとって「納得できる」結果ではないということはあるのではないか。

だから専門家に対して外部、とくに素人の目からチェックをしたり、制度的なたがをはめる等、一定のコントロールを行う必要がある。政治家の公選制やリコール制度、いわゆるシビリアン・コントロール、行政の情報公開制度なども、同じ文脈の話だ。株主総会も横綱審議会もそうだろう。もちろんこれも、個別のケースごとに差がある。航空機の運行のような技術的専門性の高い領域では、素人が口をはさむ余地はあまりないだろうし、実際、制度上も素人ではなく他の専門家が調査することになっている。また、野球のオリンピック日本代表チームの監督が試合中どのような采配をふるうかなどという問題については、専門性が高いという以上に、結果がどうあれ国民生活にさしたる支障もないので、あまり強いチェックは必要ないし実際にも行われていないわけだ。これに対して政治のような分野では、皆の納得がいく判断を行うことがきわめて重要とされており、素人である国民の意見を反映するためのシステムが何重にも設けられている。


(4) 「期待のインフレーション」は危険

専門家に対して外部の素人が事後的に検証するといったやり方を採用すれば、少なくとも短期的には、専門家と素人の利害が対立するトレードオフが生じる。当然ながら、専門家に対してより厳しいチェックが行われれば、その分だけ専門家の立場は弱くなり、素人の立場は強くなる。私腹を肥やす余地も少なくなるだろうし、手抜きをすれば責任を負わされることになる。

しかし逆に、専門家たち自身にも選択の余地がある。あまり厳しい条件に置かれれば、そもそもその専門家になりたいと思う人の数は減っていくだろう。官僚の天下りを規制しようとすれば、有能な人材が官僚を目指さなくなるとの反論が出るが、よしあしは別として理屈としては確かにそういう面がある。他の選択肢があれば、そちらに向かってしまうわけだ。大舞台での勝負に負けたスポーツ選手に対して制裁を加えるような国があれば、その国でのスポーツの発達は遅れるだろう。縛ったつもりが、逆に自分を縛ることになるのだ。

ここで大きな影響を与えるのが、その専門家に対する「期待」の水準だ。期待が高ければ、それが満たされなかったときの不満も大きくなる。この期待の水準は、前記のようなさまざまな要因によって左右されるわけだが、マスメディアの報道の影響もあるかもしれない。この文章の文脈でいえば、しばしば見かける「食の安全は最優先課題」といったお題目や「最善の医療を誰にでも」といった理想論は、「絶対に負けられない戦いがある」というスポーツ中継番組のキャッチフレーズや「金メダル獲得、期待してます」といった選手へのインタビューと同類だ。

こうした、期待を必要以上にふくらますやり方は、当の専門家たちには否定しづらいという意味でも弊害が大きい。消極的なことをいえば、やる気がないと思われてしまう。しかし本来、いつも100点満点をとれるわけではないし、誰もが100点をとれるわけでもないのだ。仮に合格点が60点であるとすれば、40点まではまちがいを許容しなければならないし、採点基準をあまりに厳しくすれば、皆落第になってしまう。こんな当たり前のことが、期待が必要以上にふくらまされている場合にはできなくなる。そしてそのつけは、めぐりめぐって高い期待を押し付けた側が自ら払うことになるのだ。もちろんサービス提供をやめた専門家の側も得はしない。つまり、中長期的には、どちらも損をすることになってしまう。


(5) 情報の透明性がカギ、だがメディアの責任も

この種の問題に簡単な解決策などおそらくない。誰かのせいにすれば片付くというものではなく、それぞれの人がそれぞれの立場で、何をすればいいか、何をしてはいけないかを考える必要がある。

とっかかりになることがあるとすれば、情報の透明性ではないかと思う。別の表現では、説明責任を果たすこと、ともいえるかもしれない。そのサービスでは何ができて、何ができないのか、特定のケースにおいて、何が起きて、それに対してどうしたのか、といったことだ。専門家でない素人には理解が難しいかもしれないが、他の専門家や近接した分野の専門家の力を借りるしかない。ポイントは、いつも100点満点をとれるわけではないという当たり前の事実を受け入れてもらうことだ。

大野病院事件でどうだったかについては詳しくないので触れないが、少なくとも一般論として、医療の分野では、情報の透明性に関して改善すべき点があるように思われる。最近では医療サービスの一環として、患者やその周囲の人たちに充分説明して納得ずくで治療を薦めていくやり方が広まってきていると聞くが、トラブルになったケースの中には、それが充分でなかった場合も含まれているのではないか。同様の話は他の分野にもあって、たとえば政治や行政の分野ではそのプロセスがよくわからないままであったりすることが多いし、当事者も逃げられなくなるまで隠そうとする傾向がよくみられる。

専門家が、後ろめたいことがない場合でも情報の透明性を高めることに対して消極的なのは、開示しても理解されず、むしろ悪くとられるおそれがあるからだろう。メディアの問題がここで顔を出す。メディアは事実に乗せて意見を伝える。そしてしばしば、意見に合わせて事実の伝え方も変える。信用が重要な要素である専門家の世界では、報道によって社会的な信頼を失うことは、そうでない職種に比べてはるかに大きな脅威だ。メディアに「悪意」で叩かれた場合の恐ろしさを、多くの専門家たちは肌で感じとっているだろう。

だから、情報の透明性を高めるためには、メディアのあり方が重要なカギを握る。メディアの人々は政治や行政や、医療や経済の専門家ではなく、情報を伝える専門家だ。自分たちが情報をどう伝えるかが社会に大きな影響を及ぼしうることや、専門家に対する期待を必要以上にふくらませることの危険性について自覚し、行動する際の戒めとすることは、それぞれの分野の専門家たちがよりよいサービスを提供するため自ら研鑽して専門性を高めていこうと努力するのと同じ意味で、マスメディアの人々が報道の専門家として、情報を伝えるというサービスを提供する際に求められる専門性の一部であるべきではなかろうか。


(6) 「素人」の責任

私たちも素人も、専門家とどう付き合っていくべきかを考えよう。野球選手が皆イチローのようであるわけではないのと同じ意味で、医師が皆ブラック・ジャックのような名医というわけではないし、教師が皆金八先生のようであるわけでもない。仮にそうだとしても、いつも最高水準というわけではない。完璧なシステムはなく、郵便が不着になることだってあるし、年金記録が漏れることだってある。飛行機は低い確率だが落ちることもあるし、資産運用の結果マイナスの収益率となる確率はそれよりはるかに高い。繰り返すが、毎回100点満点というわけにはいかない。「絶対安心」でいたい向きには申し訳ないが、これが現実だ。

合格点を何点にすればいいのかは、素人にはよくわからない場合も少なくないが、意見はどんどんいうべきだし、決められる場合にはよく考えよう。他の分野を参考にするといい。たとえば交通信号や横断歩道は、交通事故を完全にゼロにするには充分なしくみではないが、平均的にみて事故をそこそこの水準に抑えこむことに成功している。それと比べて電車のホームの安全性はどうか。さまざまな条件はちがうから直接比較はできなくても、「あれがこのくらいならこっちは」といった直感を持つことくらいはできるだろう。銀行のサービス水準と比較すれば、社会保険庁のサービス水準は圧倒的に低い、という意見の人も多いはずだ。他の人たちと意見を交わせば、世間一般の考え方もわかる。マスメディアのお題目に乗るのはお勧めしないが、合格点に達していないと思うものがあるなら、しかるべき専門家(マスメディアはその有力な1つだ)に対処を頼もう。それで解決するかどうかはわからないが。

リスクの存在を意識しながら暮らすことは、あまり気分のいいものではないかもしれないが、意識しなくてもリスクが消えるわけではない。存在するものを見ないようにして暮らすより、意識したうえで、注意して暮らすほうがいい。期待が満たされない落胆を感じることが少なくなるだろうし、第一そのほうがかえって心安らかになるのではないかな。

 

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