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インドで多発する将棋倒し事故と報道での軽い扱い

 最近インド国内で無差別テロが連続して発生し、住んでいる身としては、ある程度警戒しながら暮らすよう気をつけている。予め混雑が予想されるような場所には行かない、フェスティバルシーズン前の土日のマーケットに行くことは控える、マーケットへ行くとしても極力平日にする、夕方以降はマーケットが一番混雑するのでできるだけ昼間に行く、宗教行事で大混雑が予想される場所は特に避ける、などなど。

 しかし、テロに警戒しつつも、実は同じくらい気になるインド特有の現象がある。それはインドで日常的に多発している将棋倒し事故である。大勢の人間が集まっている状況で、ドミノ倒しが発生し、その結果多数の犠牲者が出る事故だ。もちろん、将棋倒し事故とテロ事件は比較のしようがないことは明白で、両者は何も関係がなく、そもそも、この2つを同時に引き合いに出す事すらおかしいことなのかもしれない。しかしインドにおいて、自然災害以外の理由により、定期的に何の罪も言われもない多数の人間が一気に亡くなる事件といえば、やはり無差別テロと、将棋倒し事故なのである。

 つい先ごろは、お隣パキスターン イスラマバードのマリオットホテルでのテロリストによる爆破事件と、10月に連続して首都ニューデリー市内で発生した爆破テロ(数箇所で爆弾が爆発し18人が死亡、続いて2週間後に再度、テロによる爆破で2人が死亡)に関連した話題が新聞を賑わしていた。今年9月から10月にかけての話である。2005年に同じくニューデリーの数箇所で発生した爆破テロの記憶が新しいというのに、また18人もの死者が出てしまったことが、当然のことながら人々にはショックであり、ニュースでもテロに対する非難や、遺族関連の話題が連日に渡って報道されていた。当然である。テロはインドの国家的問題であり、最大の課題でもある。犠牲者の死の不条理さも、話題になって当然だろう。

 しかしだ、同じころに実は、ラジャスターン州ジョードプルにあるチャームンダーデヴィ寺院への参道でおびただしい数の参拝者が押し寄せているところに「またもや」将棋倒し事故が発生し、なんと、いとも簡単に249人が犠牲になっているのである。しかし、こちらのニュースはテロに比べればたいした扱いではないのだ。政治の絡むテロに比べて、「ただの事故」である将棋倒し事件が、たいしたニュース扱いではないのは当たり前のことなのかもしれないが、しかし249人と聞くと、気にせずにはおれない。印象としては、先にも書いたとおり「いとも簡単に」249人の命が、ザルで大雑把に救い上げられたかのようにして、奪われたといった感じだ。あえて言うと「なんなのだろうか、この命の軽さは」というか、誤解を恐れながらも正直に言うと、「同じ重さの命なのだろうか」というか、そんな感じがしてしまうのだ。

 ちなみに筆者はインドに住んで4年になるが、その間だけでも、主な将棋倒し事故だけで、以下のような数が起きている。

 ・2008年10月 ラジャスターン州ジョードプル チャームンダーデヴィ寺院への参道 
   犠牲者249人
 ・2008年8月 ヒマーチャルプラデーシュ州 ナイナーデヴィ寺院への参道 
   犠牲者145人
 ・2008年7月 オリッサ州で6人
 ・2008年3月 中央インドで9人
 ・2007年10月 ムガルサライ駅 犠牲者15人(巡礼客)
 ・2007年10月 グジャラート州マハカーリー寺院 犠牲者20人
 ・2005年12月 チェンナイ 犠牲者42人(洪水被害者への救援物資に人々が殺到)
 ・2005年7月 ムンバイ北 犠牲者15人(ニセの爆弾騒ぎ)
 ・2005年1月 マハラシュートラ州 マンドラデヴィ寺院への参道 犠牲者340人
 ・2004年11月 ニューデリー駅 犠牲者5人

 インドでの将棋倒し事故の犠牲者のほとんどは、貧しい人々である。インドのような国では定期的に何らかの理由で、先進諸国では考えられないような常軌を逸した数の人間が一気に命を落とす事件や事故が起きるのだが、なぜだか「一気に大量に命を落とす」のは、必ず教育のあまりない貧しい層の人々である。

 それはまるで、命の重さや尊厳は絶対に平等であることはよく分かっていても、「1単位が10人位なのだろうか」とつい思ってしまうような感じである。毎度、なぜだろうかと考えずにはおれない。数百人が亡くなっても、その犠牲者数に相応しいニュースにならないのも、やはり彼らが貧しい人々であるからだということと無関係ではない。インドは貧富の差に天と地ほどの開きがあり、厳しい身分制度が根強く幅を利かせている社会である。そのような社会では、教育のない貧しい階層の人々の人権は当然のことのように軽んじられている。しかし、軽んじられているから「1単位が10人位であるかのよう」なのか、それとも、「1単位が10人位であるかのよう」だから、軽んじられるのだろうか。この疑問は、毎回、将棋倒し事故のような性質の悲劇が起こるたびに考えるのだが、実はよくわからないままだ。

 少なくとも彼らは普段から、あまり個人単位で生きていない。自分が個人であるという自覚や認識をはっきり持つこともあまりないだろう。いわば、運命を共にする共同体の1歯車として生きているといっていい。現代社会では、教育が進むにつれて個人の輪郭がはっきりしてくることになっているが、そのことがいい事なのかよくないことなのか、それはもはや分からない。

 しかし、個人としての輪郭がはっきりしていないと、自分を俯瞰することもあまりないだろうし、その結果、周囲を俯瞰する能力や事態、状況を俯瞰する能力が育たないのかもしれない。自己責任という概念もなく、自分と周りとの関係について、客観的に考えをめぐらす事がないのだろうと思える。その結果「249人が犠牲になった」というよりは、「大きな群れの一部が犠牲になった」といった印象を与える風潮になってしまうのではないだろうか・・・。将棋倒し事故を例に出すとすれば、それはかならず最初の一人の転倒から周囲がパニックに陥って引き起こされるのだが、「坂道や逃げ場のない路地での超過密行列の中に自分がいる」という状況を一人一人が最初から客観的に把握できていれば、そこまでひどい事態にはなりようがないだろう。

 犠牲者ひとりひとりには家族がいて、その家族の嘆き悲しみは身分も何も関係がなく、万国共通同じはずだ。その点において、命に軽い重いは絶対にない。けれども、インドにいると「軽んじる側」「軽んじられる側」のどちらに、より多くの責任があるとも言い切れないような、妙な命の重さの差を感じずにはいられないのだ。(教育や経済、身分の格差自体に対する責任に関しては、追及先がたくさんあるだろうけれど)。

 少なくともインドでは、寺院やフェスティバルシーズンでごった返す場所等での、逃げ場のない状況下での行列はそうとう危険だ。気をつけたい。死んでしまえば同じで、「死」自体に濃度の濃さも薄さもありはしないだろうが、しかし、インドで将棋倒し事故に巻き込まれて命を落としたとしたら、なんと自分の命を軽く感じるだろうことか。くどいようだが命の重さに差はないはずなのに。

 インドの将棋倒し事故はいろいろな意味で、なんとも無視の出来ない、気になる現象である。

 

【編集部ピックアップ関連情報】

○さまよえる団塊世代  2008/10/01
 「インド‘将棋倒し’で死者175人、何故‘将棋倒し’が起こるか・・・」
  9月30日は、ヒンズー教の女神‘ドゥルガの祭り’の初日、朝早くから多数の
 参拝者が寺院に殺到していたそうで(推定12,000人)、事故発生は、朝5時半頃、
 事故の発端は、壁が崩れたと言う説や、小さなボールが破裂し、誰かが
 「テロ」と叫びパニックとなった、と言う説が報道されている。それは兎も角、
 インドで将棋倒し事故が頻繁に発生する背景には、様々な背景がある。
http://dankaisedai.iza.ne.jp/blog/entry/738323/
 
 

 


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