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「たかがポット、されどポット」 デザインと暮らすデンマークの日常

1千万個。かの有名なデンマーク、ステルトン社のバキューム・ジャグがこれまで30数年間に世界で販売された数である。

デザインしたのは、コペンハーゲン生まれのインダストリアル・デザイナー、エリック・マグヌセン。彼は、このバキューム・ジャグ以外にも、エンゲルブレット社のスタッキングチェア「チェリック」をデザインしたことでも有名。ちなみに、チェリックは”Chair”と”Eric”をくっつけた造語である。

彼は、新しい製品を開発すると、必ず自宅に持ち帰り、いろいろと試すのだそうだ。それは、試作の段階のみならず、完成品が世に送り出されてからも、同じ。常に性能や使い心地を自分でチェックするのは、デザイナーとして大切なこと、とマグヌセンは語っている。

35年前、ステルトン社の社長が若きマグヌセンに新しい保温ポットのデザインを依頼した時も、彼の日常である、セーリング(帆に吹き流れる風によって生ずる揚力を主な動力として、主として水上を滑走すること又はその技術を競う競技)の中から製品作りのヒントを得た。両手で持って蓋を開け閉めすることなく、片手で注げるポットを作りたい---。でも、スクリュー型の蓋を使わないとしたら、いかに保温性を保持するか、ということがポイントとなる。しかし、この問題の解決策も、ほどなく船上でひらめくことに。傾船計測器を見ていて、この原理をシーソーのように蓋が傾く「ロッカー」と呼ばれる仕組みに応用したのである。

バキューム・ジャグの発売当初は、ステンレスのステルトンであり、アーネ・ヤコブセンのシリンダー・ラインで有名になったステルトン社であっただけに、バキューム・ジャグもステンレスのみの展開となる予定だった。が、マグヌセンは最初からプラスチック製品の販売をもくろみ、デザインもこっそりプラスチック仕様にしていたのだそうだ。そしてめでたく発売から2年後に、赤と黒のプラスチックのバキューム・ジャグを発売。今では、新色3種類が年に二度発売され、人気を博している。

こうして、デンマーク国内のみならず、世界でも有名デザイナーとして富と名誉を手に入れたマグヌセンだが、子供時代は、まったくこういう未来を想像していなかった。というのも、彼は失読症で、学校ではいつも一番後ろの席に追いやられていたのだそうだ。しかし、のちに陶芸工房のある学校に移ってからは、創作活動に没頭。本のない世界で、僕は本当に自由になれた、と語っている。この後も工芸職人を育てる学校へと進み、陶芸家として無からのモノづくりを学んだことが、インダストリアル・デザイナーとして花開く大きなきっかけとなったのである。

バキューム・ジャグが発売された当初、一人の医師が何度かピクニックに持参したが、どうも中身がこぼれてしまうとステルトンに問い合わせたことで、同社とマグヌセンは「ピクニック」と呼ばれるスクリュー・キャップも開発。そのおかげで、私たちは今、リビングでこのポットに「ロッカー」の蓋をセットして、軽々片手で持ち上げながらコーヒーを注いだり、また別の日は「ピクニック」をセットして、その名の通りピクニックに持参したりする自由も手に入れたのだ。

デンマーク人は、お気に入りの一品を選び抜く。そして、こうして手に入れたモノを、どこへでも連れて行く。日本だったら、家でのお茶用、ピクニック用、キャンプ用…などと用途別にいろいろ揃えることに喜びを見いだす人も多いだろうが、デンマーク人は違う。いつもキッチンに置いてあるポットを、ちょっと厚めのカップと、ケーキや果物と一緒にそのままカゴに放り込み、車や自転車や徒歩でピクニックに出かける。

仕事柄、デンマーク国内の様々な会社や事務所、学校などを訪ねるが、そこでコーヒーを頂戴した時、何度となく、バキューム・ジャグにお目にかかっている。デンマークのオフィスや会議室は、シンプルにしてモダン、軽やかな印象のところが多い。こうした空間に、このバキューム・ジャグは実によくマッチしている。そこにあるだけで、安心感さえ覚えてしまうデザインの妙。たかがポット、されどポットである。

かといって、私はデンマークに来て初めて出会ったこのポットに一目惚れをしたわけではなかった。あちこちで見かけ、実際に片手でコーヒーを注ぐのを試すうちに、だんだん好きになっていった。あの形と色、重さ、そしていよいよ注ぐ段になって、ひょっとしたら勢いあまってコーヒーが出過ぎ、粗相をしてしまうのではないか、というちょっとした緊張感に、すっかり惹かれてしまっている(こんな風に書いたら、ステルトンやエリック・マグヌセンにおしかりを受けそうだけれど)。

ここまで書いて何だが、実は私、バキューム・ジャグはまだ持っていない。でも、最近、自分の家にもあったらいいな、と思うようになった。これまではあまりコーヒーポットのことを意識して考えていなかったが、なんとなく、あのポットに家に来てほしいと感じる。マグヌセンは、とあるインタビューで「今の時代も、才能溢れる人はたくさんいる。でも、彼らが成功するかどうかは、正しい場所と正しいタイミングがぴったり揃うかどうかにかかっている。幸運の女神に味方してもらうことが大事なんだ」と言っていた。デンマークに来て7年目にして気になり始めたということは、私にとってはきっと、バキューム・ジャグとの関係をスタートさせるのに今が正しい場所とタイミング、ということなのかもしれない。

▼エリック・マグヌセン
http://www.magnussen-design.dk/

▼ステルトン社公式サイト
http://www.stelton.com/


【編集部ピックアップ関連情報】

○こたままBlog  「クラシックバキュームジャグ」 2008/10/27
 電気ポットがキライなので重宝します。
http://kotamama.cocolog-nifty.com/kotarous/2008/10/post-6cdc.html

 

 


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