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パロディ満載で描かれる映画『少年メリケンサック』と『デトロイト・メタル・シティ』、そのアイロニカルな手法を読み解く 

 少し公開から時間が経ってしまったが、宮崎あおい主演の話題の映画『少年メリケンサック』を見てきた。題材が中年パンク・バンドと、そのバンドを「発掘」し、売り出そうとするレコード会社との契約切れ直前のがけっぷちOLの話という、言わば業界内幕もの。立場的にもつい見てみたくなる設定だったし、監督&脚本が個人的には昨年のTBSドラマ「流星の絆」で結構うならされてしまった脚本家、宮藤官九郎(以下、クドカン)。彼がかなりの音楽好きだということも気になるポイントだった。さらに、そのクドカンと、あの「篤姫」の宮崎あおいの組み合わせというのにも興味引かれたし、そのコラボが結構パンチの効いたものになっているだろうことは、宮崎あおいのあの見事な「変顔」のポスターから伝わってきていた。



『少年メリケンサック』のパンフレット。強烈な図柄の
表紙はポスター(うちの一種類)と同じ。宮崎あおいは
「篤姫」の撮影と並行してこの映画の制作にも臨んでいた
という。その落差に妙に惹かれるものを感じてしまった。

 結論から言うと、結構な毒を含みつつも、かなりのスピード感で見せてくれる痛快な映画だった。主人公、栗田かんなを演じる宮崎あおいのコミカルなオーヴァー・アクションも、なかなか楽しめる。しかし、それ以上に感心させられたのは、映画の中で、音楽がちゃんと鳴っていることだった。

 メインのパンクにしても、それが「ネタ」として扱われているにも関わらず、結構きちんと演奏されている。それもそのはず、この映画で音楽を担当しているのはZAZEN BOYSの向井秀徳、主題歌「ニューヨークマラソン」の作曲を銀杏BOYZの峯田和伸(作詞はクドカン)が手がけ、後者はサウンドトラック盤のクレジットだと、劇中バンドである少年メリケンサックの演奏ということになっているが、実際には銀杏BOYZがプレイしているらしい。なるほど荒々しくも密度の濃いパンク・サウンドを聞かせてくれるわけだ。また、劇場で手に入れたパンフレットの「あとがき」によれば、クドカンは、映画『爆裂都市(BURST CITY)』(石井聰亙監督、82年公開)で初めてパンクに触れて以来、25年間ずっとパンク好きだったのだそうだ。

 『少年メリケンサック』には、音そのもの以外でも、パンクへの愛情を感じさせるパロディの断片を結構見つけることができる。一番象徴的なのは、中年パンク・バンド、少年メリケンサックのヴォーカリスト、ジミー(扮するのは田口トモロヲ)。彼には、25年前、演奏中に起こった「事故」で負ってしまった言語障害があり、しかも普段は車椅子生活という設定。そんな彼がステージ上でマイクにすがりつくように歌う姿は、’70年代、ロンドンの代表的パンク・バンド、セックス・ピストルズのジョニー・ロットンのスタイルの少々「危ない」パロディになっているのがわかる。そう考えると、言語障害のために滑舌が悪く、歌詞が聞き取れない、という話も、かつてのジョニー・ロットンの過激に崩した発音によるわめくような歌い方を極めてアイロニカルに表現したものではないかと思えてくる。この一見すると、「パンクをバカにしてんのか?」とツッコミを入れたくなるような「パンク愛」の屈折ぶりが、いろいろな意味で気になった。ちなみに、この映画の宣伝時のキャッチ・コピーは「好きです!パンク!嘘です!」だった。まぁ、最初から素直じゃあない(笑)。

 他にもこの映画には、元スターリンの遠藤ミチロウ、元アナーキーの仲野茂、そしてザ・スター・クラブの日影晃(HIKAGE)ら日本のパンクの重鎮たちが、それぞれほんの短いシーンで「カメオ出演」しているのも話題だ。パンク・バンドの危ないヴォーカリストに扮した田口トモロヲ自体が、パンク・バンド、ばちかぶりの元ヴォーカリストだったりする。しかし、そんな重鎮たちが、それぞれ、飲み屋の大将、警官、花屋の店員と一見冴えない役柄を与えられたりしていることにも、アイロニカルな視線を感じてしまう。上で述べた田口トモロヲ演ずる中年ヴォーカリストが、決して普通に考えてカッコいい役ではない、というのは言うまでもない。

 同じように、音楽への「愛情」をパロディとして表現した映画と言えば、『デトロイト・メタル・シティ』が思い出される。こちらは同名の人気ギャグ・マンガが原作で、俎上に載せられる音楽ジャンルは一応デス・メタル(註2)。昨年大きな話題になったし、原作のコミックも有名なので、およそのストーリーはご存じの方も多いだろう。

 主人公の松山ケンイチ扮する根岸崇一は、田舎(大分県)から出てきて東京でプロのミュージシャンになることを夢見るが、たまたまデモ・テープを持ち込んだ事務所の女社長の趣味で、デス・メタル・バンド、デトロイト・メタル・シティのダークなカリスマ・ヴォーカリスト、ヨハネ・クラウザーII世に仕立て上げられる。もともと自分のなりたかった「渋谷系」のオシャレなミュージシャンとの間のギャップで思い悩む彼とその周辺の姿が、ドタバタ・コメディ的に描かれる。

 『少年メリケンサック』とこの『デトロイト・メタル・シティ』には、いくつか興味深い共通点がある。まず、両極端なイメージの音楽が「ネタ」として使われていること。前者では、過激なパンクとナイーヴな青春フォーク(主人公、栗田かんなの恋人マサルがこの音楽での成功を夢見ている)で、後者は上で触れた通り、デス・メタルと「渋谷系」ネオアコ。次にそれぞれのバンドの中心メンバー(前者のアキオと、後者の根岸崇一)は田舎の出身で、どちらの実家でも牛を飼っており、弟がいるということ。そして、クライマックスでは、バンド・メンバーたちが町を走る、ということなどである。

 これらの要素が共通して描かれたのは、映画的な「常套句」などの組み込み方に関わっているのではないかと想像できるが、映画の専門家ではない筆者にはそれを正確に言い当てる力も知識もない。ただ、クライマックスでの「走り」のシーンが、両極端な音楽ジャンルの間で思い悩む主人公たちが腹を括ってひとつの結論に達する時までの「葛藤」を表現しているのであろうことは十分理解できた。

 『デトロイト・メタル・シティ』の根岸崇一はファンたちの待つ東京のステージに立つため、郷里の大分から在来線と新幹線を乗り継いで慌てて上京し、東京駅からは彼を崇めるファンたちを従えて、ライヴ会場まで走る、走る。『少年メリケンサック』では、もう少し状況は錯綜していて、もはや人前でまともな演奏すらできなくなっていた中年パンク・バンドは、全国ツアー中、マネージャー役となっていた、宮崎あおい扮する栗田かんなに見捨てられ、移動に使っていたバンもガス欠になった広島で、出演が予定されていたライヴハウスを探して、商店街を何周も何周も走り回る。その間、かんなは隣の岡山で恋人のマサルの弾き語りライヴを一人聞いていたのだが、見捨てたバンドの連中のことがやはり気にかかり、ライヴを途中で抜け出して、こちらはタクシーで広島のライヴハウスに向かって「走る」。どちらも「軟弱」系の音楽への思いを振り切って、「過激」系音楽の場に、もう一度自ら意を決して飛び込んでいくという構図になっているのだ。

 さらに言えば、『少年メリケンサック』の方では、広島の町を走り回ったバンドは、その晩、見違えるような演奏をする。走った距離自体が、彼らが演奏力を復活させるまでの「労苦」を象徴してもいるのだろうが、そこでもうひとつ浮かび上がってくるのが、彼らが走り回っていた商店街の中心にあった十字路だ。カメラは基本的にはそこに据えられ、あたふたしながらその十字路を何度も通りすぎるバンドメンバーたちを映し出す。このシーンは恐らく、「クロスロード」という曲と共に有名になった、ブルースマン、ロバート・ジョンスンの「クロスロード」伝説(86年には同名の映画まで作られたが…)のパロディとして描かれていたのではないか? 十字路で悪魔と取り引きしたジョンスンがギターの腕を飛躍的に上げた、というやつだ。とすると、その十字路にいて、彼らが通り過ぎるたびに花をひっくり返されていた花屋役のHIKAGEはパンクの「悪魔」か?

 しかし、ふたつの映画で、その両極端な音楽要素の扱い方には微妙な違いもある。『少年メリケンサック』では、パンクへのリスペクトという軸が最後まで貫かれているのに対し、『デトロイト・メタル・シティ』では、デス・メタルと「渋谷系」、そのどちらかのジャンルの音楽にハッキリと肩入れしているという感じがしないのだ。この描き方の差の背景には、やや強引だが、前者の脚本・監督のクドカン(’70年生まれ)と、後者の原作者、若杉公徳(’75年)の世代のジャンルに対する感覚の差という背景があるのではないかという気がしている。つまり、パンクをリアル・タイムで経験しているクドカンと、ポスト・ニュー・ウェイヴ世代で、様々なジャンルがどんどん相対化されていく中、(恐らく)いくつかのジャンルの音楽を横断的に体験してきた若杉との音楽観の違いがあるのではないかと思うのだ。

 『少年メリケンサック』では、パンクへの愛が深い故に、そのベタなメッセージを現代の観客により通用する形に「加工」しようとして、アイロニカルな作法が使われる。一方の『デトロイト・メタル・シティ』の場合は、もう少し複雑。背景としてポスト・ニュー・ウェイヴ世代の問題がある、ということを前提にするとすれば、実際にはパンクやヘヴィ・メタルを通過して「渋谷系」に辿り着く、といったような横断的な体験をしてきた音楽ファンが多いはずなのにも関わらず、それでも各ジャンルにはそれぞれの「物語」が存在し、ジャンル別にシーンがバラバラにタコツボ状に存在しているような状況がまずある。そして、その別々のジャンルの音楽どうしが出会う時、各々タコツボに守られて成立していた「物語」の虚構性を露わにするような力がどうしても働いてしまうために、そこにはどうしても気恥ずかしさのようなものが生まれてしまう。その気恥ずかしさが、こうしたパロディの起動力になっているように感じられるのだ。このパロディの構図は、音楽史に残る異種ジャンルのコミカルかつ歴史的な共演劇となった、エアロスミスとランDMCの「ウォーク・ディス・ウェイ」のPV(プロモーション・ヴィデオ)にも似ている(註3)。

 いずれにしても、音楽へのストレートな愛を、そのままでは表現できない(したとしても、現在の観客には伝わらないと危惧している)屈折ぶりが、非常に今的で痛快。それと同時に、ベタなメッセージはそのままだと観客には届きにくい(敬遠される?)が、それをいったんアイロニカルな視点でパロディとして料理し、コミカルな装いにくるめば、その向こうにあるメッセージが一気に観客、視聴者に届きやすくなる。それによって「感動」をより共有しやすくなる…製作者と観客との間に、そのような現代的で屈折したメディア・リテラシーというか「作法」(註4)が想定されているらしいことを非常に興味深く感じさせられた2作品だった。

 

<註1>
かつてはその過激さにより一部で知られていたものの、実は25年も前にすでに
解散してしまっていて今はもう存在しておらず、当然メンバーは全員中年に
なってしまっているという設定。そのことを知らないまま、売り出しのための
ツアー計画が立ち上がってしまったため、主人公のかんなは無理やりかつての
メンバーを集めて再結成させ、ボロボロの状態のバンドを連れて全国ツアーに
出ることになる。ちなみに、このバンドのメンバーのうち二人はアイドル・バンド、
少年アラモード出身ということになっていたのだが、このアイドル・バンドから
パンク・バンドへ転身という流れは、'70年代後半に活躍したアイドル・バンド、
レイジーのメンバーが後に本格派ハード・ロック・バンド、ラウドネスを結成
していくエピソードを踏まえているようだ。回想シーンの中で出てくる
少年アラモードのバンに「赤ずきん…」という文字が見えたが、これはレイジーの
'78年の大ヒット曲「赤頭巾ちゃん御用心」を意識してのものだろう。

<註2>
『デトロイト・メタル・シティ』で流れる音楽の実際の“デス・メタル”度に
関しては、http://mediasabor.jp/2008/08/post_464.htmlという意見もある。

<註3>
『デトロイト・メタル・シティ』の中でも、クラウザーII世とカリスマ・ラッパー
との対決シーンというのが用意されている。これも、エアロスミスとランDMCとの
PVを念頭に置いて描かれたのかもしれない。

<註4>
メッセージがベタであればあるほどそれをアイロニカルな手法にくるんで
表現せざるを得ない、というこの「時代精神」めいたものは、仲間由紀恵主演の
人気TVドラマ「ごくせん」(これも原作はマンガ)などを見ていても強く
感じたことがあるが、そうした作法が成立することになった背景を分析した
ものとして、北田暁大著『嗤う日本の「ナショナリズム」』
(NHKブックス、2005年)が参考になる。

 

 

 

 


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