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「常識」の差:専門家の責任をめぐる組織と個人の関係について

いわゆる「足利事件」で有罪判決を受け服役中だった受刑者が、DNA再鑑定の結果、冤罪である可能性が高まり、再審開始決定を待たず釈放された件は、警察及び司法システムに対する不信が高まったという点でも、他の類似の再審請求事案に対する影響という点でも、大きなインパクトをもって受け止められている。当時、捜査を指揮していた元警察官のブログには、事件に関する言及があったことから批判的なコメントが殺到し、いわゆる「炎上」状態となったらしい(すでにブログは削除されたようだ)。

この件が裁判員制度をめぐる議論、捜査の可視化をめぐる議論に飛び火するのは当然の話で、すでにあちこちで議論が行われているが、私としては、以前にも書いた(http://mediasabor.jp/2008/08/post_466.html)「専門家の責任」という視点から少し考えてみたい。組織に所属する専門家の責任についての考え方や取り扱い方、いいかえれば「常識」に、どうも分野によって差があるように思われるからだ。

前回「専門家の責任と期待のインフレーションについて」で取り上げたのは、医療事故だった。2008年8月20日の、いわゆる「大野病院事件」に関する福島地裁判決。執刀医が業務上過失致死と医師法(異状死の届け出義務)違反の疑いで逮捕、起訴されたものだが、無罪となったことで、より大きな話題となったわけだ。これは地裁判決だが、検察は控訴を断念したそうなので、これが確定判決ということになる。

いうまでもないが、これは個人に対する責任追及だ。この医師が所属していた病院の設置者である福島県に対しては、民事上の損害賠償請求を行う余地があろうが(実際に行われているかどうかは知らない)、それとは別の問題として、実際に手術を担当した医師本人の責任が問われたわけだ。

医療過誤における医師個人の責任追及については、さまざまな議論がありうるし、実際に議論も行われているらしい。厚生労働省は、医療死亡事故の原因を究明する第三者機関として、「医療安全調査委員会(仮称)」(http://www.mhlw.go.jp/seisaku/05.html)の設置を検討しているが、日本医師会はこれに賛成しているのに対し(http://dl.med.or.jp/dl-med/teireikaiken/20080528_1.pdf)、これに不満を持つ医師たちが日本医師連盟(http://www.doctor2007.com/)という組織を立ち上げ、独自の反対意見を表明している(http://www.doctor2007.com/jiko2.html)。

主な論点は、つきつめれば、医療事故の防止と医療体制の維持をどのように両立させるか、ということだ。不適切な医療行為の責任が問われぬまま放置され、重大な医療事故が続発するような事態は避けたい。しかしそうした動きが行き過ぎて、医療従事者が過度なリスクにさらされるようになれば、医療そのものの崩壊を招きかねない。高度な専門性を持つこの分野での適切な調査には医療専門家の知見が欠かせないが、一方で身内のお手盛りにならないために、必要な範囲で司法関係者も関与しきちんとした手続きをとっていかなければならない。それらのバランスをどこでとるか、という問題だ。

よく似た問題が、いわゆる経営判断の原則についても存在する。企業経営者が行う経営判断は、その責任の重さにふさわしい高度な注意義務を伴うものだが、同時に「正解」が必ずしも自明でない場合が少なくないこともふまえ、その責任の範囲は制限されたものとなる。会社、ひいては株主に巨額の損失を負わせた責任をとるべきという意見、過剰な恐れなしにリスクテイクできる環境こそが成長をもたらすという意見、いずれにも理がある。「相場」感はあるにせよ、それも時とともに変わっていく。

ここでやっと本題。このように、他の分野では当たり前に存在する、個人への責任追及に伴う「葛藤」が、公務員の職務執行に関してはあまりみられないように思う。足利事件については、今後再審が行われ、無罪判決を得た後、損害賠償が行われることとなろう。これは組織としての責任の取り方だ。これに対して、個人の責任はどうか。

足利事件において、担当の捜査官が自白を「強要」した点(少なくとも元受刑者はそう主張している。今となっては証明は難しいが)、担当裁判官が当時のDNA鑑定の性質を充分理解せずに有罪判決を下した点、さらにその後の再審請求に対して、「常識的」にみて充分な根拠があると思われるにもかかわらずきちんと対応しなかった点など、組織全体というより当該公務員個人の作為または不作為が、冤罪と17年間の服役という不当な結果に対してかなり直接的に影響したことは否定できない。

医療過誤事件においては医師個人の刑事責任が追及されるにもかかわらず、冤罪事件をもたらした警察、司法関係者の個人としての責任が追及されるという話にはなぜならないのか。「常識」がちがうのだろうか。

法律上の扱いをよく知らないが、当然ながら理屈はあるだろう。少なくとも一部については、明示的に法律で守られている。たとえば職務執行中の警察官による発砲などは、警察官職務執行法により正当行為となる場合が多かろうし、そうでなくても正当防衛などが成立する可能性は十分にある。行政職や、検察官、裁判官などの場合は、そもそも仕事が文書を書いたりハンコを押したりだから、注意義務を果たしたかどうかというのが論点になるだろうが、それ自体で違法となる可能性は低い。

もちろん、例がないわけではない。たとえば、いわゆる薬害エイズ訴訟に関する最高裁決定で、厚生省(当時)課長が有罪となったケースは注目される。個人の責任が問われたケースだ(http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=02&hanreiNo=35923&hanreiKbn=01)。

HIV(ヒト免疫不全ウイルス)に汚染された非加熱血液製剤を投与された患者がエイズ(後天性免疫不全症候群)を発症して死亡したことにつき,厚生省薬務局生物製剤課長であった者に,薬品による危害発生の防止の業務に従事する者として薬務行政上必要かつ十分な対応を図るべき義務を怠った過失があるとして,業務上過失致死罪の成立が認められた事例

また、明石市の花火大会の際に歩道橋上で発生した将棋倒し事故に関し、警備を担当していた警察の現場責任者が有罪判決を受けた事例もある。他にもあるとは思う。

しかし、これらが必ずしも典型的な例ということではなかろう。高度な専門性を要し、不確実性の高い状況下でタイムリーに判断を下していくこと、多くの人たちが関与し組織として決定されるものであることから、実際上特定の個人だけの責任が問われるケースはさほど多くないはずだ。裁判官たちの不偏性を疑うわけではないが、当時の「公務員許すまじ」という世論に影響された部分があったのではないかと思う人もあろう。

全体として、やはり不公平ではないかと思う。県立病院の医師も公務員なら、警察官や検察官、裁判官も公務員だ。医療従事者や会社の経営者が高度な責務を負った専門職であるのと同様の意味で、公務員も高度な責務を負った専門職だ。もちろん職務の性質もその関与のしかたもちがうから、すべて全く同じであるべきと主張するわけではないが、もう少しバランスがとれていてもいいのではないか。現行法上の取り扱いの問題とは切り離して、個人レベルの判断で他人の生命身体に直接危害を加えうる、ないしそれに決定的な影響を与えうる立場にある専門家の責任というものに対して、もう少し納得感のある、統一的な取り扱いがなされてしかるべきではないか。

行政職公務員の個人責任をもっと厳しく追及せよ、という方向性ももちろんあるが、そればかりではない。少なくとも医療従事者に関しては、個人に対する責任追及の余地はもう少し制限したほうがいいのではないか。現在の状況は個人があまりに過大なリスクにさらされているように思う。治療ミスで即、個人の刑事責任まで追及される恐れがあるとなったら、医療の道に進もうと考える人が減ってもしかたないではないか。

逆に一般の公務員に関しては、今よりもう少し、厳しくなってもいいような気がする。この分野で免責の切り札のように使われる「裁量の余地」は、もう少し限定的に解釈してもいいように思う。裁判所がこれを広く認めがちなのは、司法権による行政権への過剰な介入を控える発想があるのかもしれないが、ここは「常識」を働かせるべき分野だ。

とはいえ、こと公務員の責任という領域での「常識」に関して、現在の警察及び司法の方々は、例外もたくさんあるのだろうが、総合的にみて正直なところあまり期待できない。個人的には裁判員制度をあまりよく思っていないのだが、こういう分野にこそ、裁判員制度を活用していくべきなのではないか。

それからもちろん、警察に関しては、取調べの可視化が絶対に不可欠だ。当然、一部ではなく全部。警察官個人が取調べ中の行為について刑事責任を負わされるリスクがあるとなれば、むしろ警察官自身のリスク回避のために、可視化が必要になるのではないだろうか。

 

 


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