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酒井法子容疑者のバキバキDJプレイとPerfumeのギクシャク・ダンスとの「差異」について考えてみた

■酒井法子の逮捕事件と過剰なまでに加熱するメディア
 
 Perfumeの新しいアルバムがリリースされたということで、今回のエントリーでは久しぶりに彼女たちについての考察を進めてみようと思っていた。そんな時に、酒井法子が夫に続いて覚醒剤所持、使用の疑いで逮捕される事件が起こり、「アイドル」のイメージと、アイドルと非アイドルの境界線について、いろいろと考えさせられることになってしまった。

 酒井法子の事件に関するテレビでの「報道」ぶりを見ていて、当初は「清純派のアイドル」(註1)に起こった悲劇、といったスタンスだったのが、逮捕状が出た瞬間から一転、彼女がいかにクスリにハマり、夜はクラブなどで遊び歩いていたとか、数年前から入れていたと言われる刺青の話、そして彼女の不幸な生い立ちのこと、そして奇妙な結婚生活…と、「清純派」とは対極にあるようなネガティヴ情報が次から次へと飛び出してきた。

 加熱するばかりのメディア報道とサイバー・カスケード(註2)的状況の中で、「酒井法子容疑者に重罪を!」の流れが出来てしまっている。もちろん「有名人だからこそ、世の中に示しを付けるためにも、重い罪に問われるべき」というのは考慮に値する意見だとは思う。しかしその一方で、こんな時こそ冷静な議論が必要なのではないかという思いもある。

 何回か前のエントリー(http://mediasabor.jp/2008/11/post_532.html)で書いた、60年代の英国で起こったミック・ジャガーらのドラッグ事件に際して、「有名人だからといって彼をスケープ・ゴートにしてしまっていいのか?」という識者からの勇気ある意見が出たことの意味を少しは考えてみるべきかもしれない。裁判員制度がスタートしたばかりだけに(註3)。


■衝撃のサイバー・ノリPのDJ映像
 
 さて、そんな中でTVメディアが象徴的なものとして飛びついたのが、酒井法子が髪を振り乱しながらDJプレイをしている映像だったのが興味深い。

 この映像が撮られたのは3年前、2006年の2月19日、場所は六本木の今はなきヴェルファーレで開かれた、米国のヴィンテイジ・タトゥ・ウェア・ブランド「エド・ハーディ」(註4)の上陸イベントでのことだという。このイベントで酒井法子は「サイバー・ノリP」の名義であのようなノリノリのDJプレイを披露。その様子をオン・ライン・メディア『ナイトスケープ』(http://www.nightscape.info/)が取材した時の映像が、YouTubeやニコニコ動画に「サイバー・ノリPのバキバキDJプレイ」といったタイトルで「転載」(現在は削除)され、数十万というアクセス数を稼いでいたのに注目、恐らく最初はテレビ朝日系のワイドショーが流し始めたものだった。たちまち、それまでの「清純派」のイメージとあまりに違うハチ切れぶりが、足に入れていた刺青以上に視聴者にショックを与えたようで、他のテレビ局でもガンガンこの映像を流すようになっていった。

 この映像が何故、メディア関係者、そして多くの視聴者にインパクトを与えたのか? YouTubeにアップされた時のタイトルにあった「バキバキ」というのは、一説によると、覚醒剤でキマっている状態を指す言葉だったりするらしいのだが、あの映像の中の彼女がクスリをやっていたかどうかを正しく判定することは、実際には不可能だろう。しかしDJブースの中で一心不乱に髪をふり乱し、両腕を激しく回し、足を踏みならしながらハイ・テンションで「ダンス」に興じる彼女のその姿がアイドルとしての一線をハッキリ超えてしまった、と多くの視聴者が認識してしまったであろうことは容易に想像がつく。

 テレビ放映された映像を元のものと比べてみると、DJブースにスポットライトが当たって彼女の顔がハッキリわかる部分の直後に一番激しいその「ダンス」の部分を編集でつなぎ合わせてあり、テレビ局がその「ダンス」の激しさで、それまでの彼女のイメージとのギャップを強調しようとしていることがわかる。あのハイ・テンションな「ダンス」を見て、「清純派」としての彼女を愛していたような(かつての?)「男の子」たちが抱いてしまったであろうある種の「恐れ」の感覚は、70年代からアイドルを見てきた筆者にもわかるような気がする。

 酒井法子の覚醒剤所持---逮捕と、それをきっかけに数々の脱アイドル的な「ふるまい」を次々と見せつけられたことで、かつてのアイドル・ファンの「男の子」たちは二重に挫折を味わうこととなってしまったのだ。


■「規律訓練」の存在を強く感じさせるPerfumeのユニークなダンス
 
 ところで、かつての「清純派」アイドルたちのダンスの定番と言えば、控え目な振り付けと左右に足を踏み出すアイドル・ステップ。'70年代半ばに登場した二人組ピンク・レディーの激しいアクションは女性アイドルとしてかなり画期的だったと記憶するが、全国の子供たちが彼女らの振り真似に熱中したことが、彼女たちの人気を押し上げることになったこともよく知られている。

 Perfumeの3人が「歌い」ながら繰り広げるダンスは、ピンク・レディー的なものの延長上にあると言えなくもないと思うが、現代的な16ビートのダンス・ミュージックに乗ってなされる彼女たちの動きの方がより高度で、激しくなっている一方、非常にクールなイメージが強くなっているのが特徴だ。

 しかも、そのクールな方向性は、上で触れたサイバー・ノリPのハイ・テンションなダンスに見られた自由で力任せでホットな感覚とは対極にあるものと言える。そのクールさを生み出す要因となっているのは、シンクロナイズド・スイミングと同種の「厳しさ」を彷彿させる3人の動きの役割分担と「合わせ」であり、16ビートのダンス・ミュージックに合わせた細かくて素早い動きが要所要所で強調される点、そして「自然」な動きとは言い難いビートを一瞬外したシンコペーション的な動き。敢えてギクシャクした感じを表現するような直線的なアクションや、カクカクという「止め」の感覚がかなり入ってきているのも特徴だ。

 高度になりすぎたせいか、子供たちがPerfumeの振り真似に熱中している、などという話は聞いたことがないが、そうした「不自然」な動きも含んだ彼女たちのダンスは、その音楽のテクノ的な要素、そして何といっても加工された歌声と相まって、彼女たちの姿をよりアンドロイドっぽく見せてくれるのだ。

 テレビのオリンピック中継なんかを見ていると、シンクロや体操競技の選手たちの行為が「演じる」と表現されていることがよくあるが、同じよそうな意味で、彼女たちのダンスも激しいが「演技」のカテゴリー内ものと言っていいだろう。言い換えると、Perfumeのダンス=身体表現は、一定のコントロールの下にあり、その制限の下での一生懸命な(健気な)「演技」なのだ。そんなことを言ったら、振り付けのあるダンスはみなそうじゃないかと突っこまれそうだが、上で述べたようなPerfumeのダンスの極めて独特な動きは、そのコントロールの強さをより感じさせ、それだけにより「規律訓練」の存在を強調する(同時に、彼女たちの健気さもより感じられる)タイプのものに見えるのである。

 同じ激しいダンスでも、サイバー・ノリPの自由で力任せのダンスは、彼女がそのコントロール(ひょっとしたら自己の意識によるそれも含めて?)の外ではっちゃけてしまったことをハッキリと見せてしまうものであった。それは、'89年のあの事件以降、挫折を重ねてきたある種の「男の子」たちにとっては「恐ろしい」風景だったに違いない。


■アンドロイド的な女の子のイメージが求められるのは何故なのか?
 
 与えられた「型」をどれだけ「健気」に演じて見せてくれるのか(註5)、さらに言えば、場合によってはアイドル自らメタ的な視点を持ち、敢えてその「型」の中で遊んだり、楽しんだりして見せてくれるのかどうか。…というようなところまで含め、アイドルはいろいろな形で評価されてきた。しかし20世紀の終わり頃から、かつてのアイドルの受容層だった「男の子」たちの求める理想的な異性像に、既成のアイドル・モデルでは次第に対応できなくなってきていたのではないか?

 そういう点で気になるのは、ある種の「男の子」たちの理想の異性像が、どんどん虚構化してきていることである。ビル・エヴァンスのアルバムを使ってヘッドフォン・アンプの聞き比べを試みたエントリー(http://mediasabor.jp/2008/10/ipod_1.html)でも、ヘッドフォンをかけるなど「アンドロイド的な仕立て」を施した「女の子」のイメージが一部で異様に受けていることに関してちょっと触れたが、その手のイメージを使った作品を筆者が最初に目にしたのは、桂正和による漫画『電影少女』(1989年から『少年ジャンプ』にて連載)であった。

 借りてきたヴィデオ・テープを再生すると「ビデオガール」が現われ主人公の男の子の「恋」の手伝いをするはずが……というストーリーは、「ドラえもん」のオタク版のようでも、ホラー映画だったデイヴィッド・クローネンバーグ監督の『ヴィデオドローム』('82年、カナダ)を「裏返し」にしたファンタジーのようでもあったSF恋愛漫画。恐らく、同じ'89年に逮捕された連続幼女誘拐殺人事件の犯人Mのヴィデオ・テープだらけの自室が公開されて、バッシングにさらされたオタクたちが、この漫画でイメージ喚起されたような「虚構」の女の子像に逃げ込む、という道を最初に見出したのではないかと思う。同年には、伊集院光のラジオ番組から「架空」の理想的アイドル<芳賀ゆい>も誕生している。

 そんなイメージがその後2000年代にかけて、さらに前景化してくる要因としては、たとえば社会学者、宮台真司が、'95年の地下鉄サリン事件後の状況について記している、次のような時代認識を考慮してみる必要があるだろう。

 ≪「自己の時代」前期である「<ハルマゲドン>の時代を象徴するのがオウム真理教ですが、彼らは自己のホメオスタシス(引用者註・生体恒常性)のために現実をコントロールしようとして、その結果、大失敗してしまった。この「大失敗」に「懲りて」、あるいは「大失敗」ゆえに批判されて、多くの人たちは自己のホメオスタシスのために現実をいじるのはやめて「虚構を利用する」ということを考えるようになった。これがメインストーリーになるわけです。≫(「一九九〇年代以降のポップカルチャー」/東浩紀、北田暁大編『思想地図vol.3』日本放送出版協会所収より)

 こうした「時代状況」とも共鳴し合いながら、アイドルの「理想形」を、「虚構」のものに求める動きはますます一般化しつつあるような気がする。ちなみに、CGによるアイドルの「理想形」として、ヴァーチャル・タレント「伊達杏子DK-96」がデビューしたのは、地下鉄サリン事件の翌年、'96年のことだった。

 '08年に公開された綾瀬はるか主演の映画『僕の彼女はサイボーグ』(郭在容監督)も、明らかにその延長線上にある作品だったし、初音ミクが登場した頃には、ニコニコ動画のコメントやタグに≪「二次元の勝利」「もう人間は要らない」(中略)といった言葉と共に強く肯定する者たちが多く見られた」のだという(濱野智史著『アーキテクチャの生態学』NTT出版より)。また、現実の女性とのコミュニケーションから降りて、二次元の美少女キャラクターに萌える男は正しい、との論陣を張る本田透のような「萌え」評論家[著書は『電波男』(三才ブックス)、『萌える男』(ちくま新書)など]も、そんな時代を象徴する存在と言えるのかもしれない。

 そういう「時代性」と強引に結びつけて考えるならば、加工された「ロボ声」で歌いながら、アンドロイド的なギクシャクしたダンスで踊るPerfumeは、実在の3人の「女の子」を「逆」擬人化した上で「理想化」してみせるというアクロバティックな演出と、その3人の「女の子」の広島から亀戸(の郊外型ショッピング・モール)を経由して語られる「リアル」な物語とを重ね合わせた、虚構と現実のギリギリの境界線に位置する「ハイブリッドなアイドル」の最新型だったのである。

 Perfumeとはある意味対極の旧来形アイドルのイメージをずっと維持できていると思われていた酒井法子。彼女のヒット曲「碧いうさぎ」を、替え歌「白いクスリ」として、あのハイテンション・ダンスとは真逆の「萌え」声を持つ初音ミクに歌わせざるを得なかった、アイロニカルでありながら強く屈折したかつてのアイドル・ファンたちの心情に、「容疑者」になったと同時にイメージ的にもアイドルの境界線の外に転がり落ちてしまったノリPは、今後どう応えていくことができるのだろうか?

 

<註1>
日本版wikipediaの「アイドル」の項では、「1970年代から1980年代の日本では、若年層に向けた歌謡曲を歌う清純派歌手(アイドル歌手)のことを「アイドル」と呼ぶことが多かった。」と、アイドルという言葉の意味の中にすでに「清純派」という随分と古風な言い方が含まれていて興味深かった。

<註2>
通常は「分極化」「島宇宙化」しているインターネット空間の中で、「わかりやすく」、みんなが乗りやすい「意見」に注目が集まり始めると、そこへの「共感」が一挙に広がり、過度なバッシングの流れなどができてしまうこと。昨年の倖田來未の問題発言に対し、インターネットからバッシングが起こった時にも言われた。この概念の提唱者である米国の憲法学者、キャス・サンスティーンの著書『インターネットは民主主義の敵か』(キャス・サンスティーン著、石川幸憲訳、毎日新聞社、03年)の中では、「大小含めて多くの社会的グループ」が「驚くほど素早く特定の信念または行動へと飛びつくこと」と記されている。あらゆるテレビ番組の視聴率低下が問題化しつつある中、酒井法子のこの事件に関する情報を流す情報バラエティおよびニュース系の番組が驚くほどの数字を稼ぐことができた要因のひとつともなっているはずである。

<註3>
この事件の裁判自体は、今のところ酒井法子の容疑が覚醒剤の使用や所持だけであり、その場合は求刑も「10年以下の懲役」となるため、裁判員制度の対象外になるという。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090809-OYT1T00227.htm?from=main4

<註4>
酒井法子の夫の高相祐一容疑者が同ブランドの青山店でオーナーを務めていたという報道もあったが、同ブランドの公式HP(http://www.edhardy.jp/)には、そのことを否定するメッセージが載せられている。

<註5>
Perfumeの場合は、プロデューサーの中田ヤスタカが打ち込みで作った曲に、彼女たちの生歌を乗せた後、その加工をする際に、歌のニュアンスに合わせて曲をもう一度換骨奪胎、時にはコード進行さえも変えてしまう場合があるという(『クイック・ジャパン』Vol.80の中田ヤスタカ・インタヴューによる)。したがって、単に出来上がった「型」に合わせてただ歌を入れていく、というものとは違う、意外に有機的な関係性が、バックの音楽と彼女たちの「歌声」の間に成立している部分もあったりするから侮れない。

 

【編集部ピックアップ関連情報】

○論駄な日々 「マスメディアと公開フォーラム」 2005/04/03
 サンスティーンは、インターネットの民主主義を救うための糸口を
 いくつか提示する。たとえば、思いがけなく見知らぬ人の意見を
 偶然聞く(読む)公開フォーラム、そして、マスメディアが提供する
 社会的な共通体験、共通の準拠枠の回復。つまり、価値観や考え方の
 違う人との出会いや、対話・議論を促すことだ。サイバースペース
 には可能性があるし、マスメディアだって出番は残されているはずだ。
http://hatanaka.txt-nifty.com/ronda/2005/04/post.html

 

 


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