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公的資金で救済される金融機関、「巨大な赤ん坊」の取り扱い方

アメリカのサブプライムローン問題に端を発した昨今のいわゆる「金融危機」について、CDS(クレジット・デフォルト・スワップ)などのデリバティブ商品の存在そのものが「悪」であるいう意見がある。この種の話があるとすぐにこういう話が出てくるが、こういう見方はあまり適切でも生産的でもない。暴走は、どんな原始的な市場にも発生しうる。もちろん、複雑な仕組み商品が実態をわかりにくく、かつ被害を大きくしたという主張は理解できるし確かにそういう面はあっただろうが、それとて人間が懲りずに繰り返す「忘却」と「失敗」の繰り返しの一部とみるほうが適切だと思う。17世紀オランダで起きたチューリップ・バブルの時代から、科学は発達しても、人間はさして進歩していないのだ。

以上を前提としてだが、もちろんこのままでいいとも思わない。現在提唱され、各国で実施され、あるいはされようとしている、いわゆる金融安定化策が少なくともある程度有効であるという前提で、個人的に気持ち悪く感じるところについて書いてみたい。


今回改めて確認されたことがある。アメリカでもヨーロッパでも、日本でもその他の国々でも、銀行、証券などの金融業界の各社が自分で自分の尻を拭くことができない、いわば「赤ん坊」であるということだ。もはや誰も否定できまい。預金者、契約者保護の領域を超えて、企業存続のために公的資金による資本注入が必要となる事態というのは、明らかに自分の失敗のつけを他人に回すことだ。「赤ん坊」と呼ぶにはあまりに巨大ではあるが、自分たちのやったことの責任を自分たちでとることができず、「親」に尻拭いを任せて平気でいるというのは、赤ん坊以外の何者でもない。もし「赤ん坊」であるなら、「赤ん坊」にふさわしい取扱いがあるはずだ。それはどんなものだろうか。

私が気持ち悪く感じているのは、端的にいえば、経営の失敗に対して公的資金による資本注入で対処することが、リスクとリターンのトレードオフを崩してしまう点だ。世の中予期できないことが起きるのはしかたないから、「結果として」なんらかの不公平がおきることは容認しなければならないが、リスクとリターンのバランスが構造的におかしくなる状況は看過できない。

金融機関等に対して行われる公的支援の根拠としてよく持ち出される論理は「too big to
fail」というものだ。つまり、倒産させてしまうと社会全体に及ぶ影響があまりに大きいので救済せざるを得ないというわけだ。好き放題やっておいていざとなったら国の助けかよ、というご意見の方が少なからずいるだろうことは容易に想像できる。くやしいがしかたないという落とし所への抵抗が強いのもそのせいだ。

しかしちょっと待て。それらの企業のほとんどは、初めから大きかったわけではない。成長して大きくなっていき、いつからか「too big to fail」な状態になったのだ。なぜ、そうなるまで「放置」されてきたのだろうか。民間企業というのはそもそも自己責任を旨とするものだったはずだ。確かマイケル・ムーアがどこかで同じようなことを書いていたような記憶があるが、いざというときに政府が救済しなければならないなら、そもそもその企業を「too big to fail」にしてしまったこと自体が誤りではないか。

これまで、企業の規模が大きくなりすぎることの弊害は、競争の促進という観点から論じられてきた。企業を大きくしすぎないことによって、競争を阻害する条件を除去し、消費者にとってより望ましい状態を作ろうというわけだ。上記の議論は、ここにもう1つ、新しい論点を持ち出すものといえる。企業が大きすぎると、その企業に何かあったときに社会にとって迷惑を及ぼす原因となるため、排除すべきだというものだ。

しかし一方で、企業がその規模を拡大しようとすることはその本質的な活動であり、また自然なことでもある。規模を拡大することによって、事業コストは下がり、事業範囲も拡大し、リスクへの対処も(一般的にいえば)よりうまくできるようになる。これらは消費者にとってもメリットのはずだ。

もし、なんらかの理由で「too big to fail」な規模の企業を容認しなければならないとするなら、別のアプローチをとらざるを得ない。考えてみれば、危機的な状況が発生した場合に救済のための資金を受け取れるというのは、一種の保険(デリバティブと呼んでもいい)だ。保険なら、保険料を払うのは当然ではないか。預金保険も、保険料を負担している。預金保険が対象とする預金者保護のレベルを超えて、公的資金による企業自体の救済を行う必要がある場合が想定されるなら、その保護を受ける企業は、カバーの質及び量にふさわしい「保険料」をあらかじめ負担すべきだ。

要は、預金保護のために預金保険料を支払うのと同じ理由で、公的資金による資本増強が必要となるような企業には、「公的資金保険」(なんか変な名だが)みたいなものの保険料に相当する負担を課すべきだということ。「赤ん坊」が泣いたら面倒みてね、と近所のおばちゃんにお願いするなら、盆暮れの付け届けぐらいはするのが常識というものだろう。具体的な方法はいろいろ考えられるだろうが、何にせよこうしたしくみがなければ、リスクとリターンのバランスが崩れてモラルハザードが発生してしまう。

現在のしくみは、この「巨大な赤ん坊」の面倒をみるために、多くの高給の役職員という名の「ベビーシッター」たちが雇われ、彼らがその高い能力とモラルでその任に当たる、というものだ。しかし、これもすでにはっきりした。彼らの能力もモラルも、その高給に値するほどのものではない(外資系金融機関だけではない。バブル崩壊後の経緯を考えれば、日本の金融機関も程度の差こそあれ事情はさして変わらない)。彼らが享受している「プレミアム」の少なくとも一部は、いざというときに頼りにならない彼らの能力やモラルに対してではなく、最後に尻拭いを迫られる(可能性のある)政府に対して支払われるべきだろう。

もちろん、そうはいってもそう簡単に給与は下げられない、モチベーションとかあるし、というのも理解できる。ならば、「尻拭い」の一端を彼らにも負わせるべきだ。明確に個人の責任を現場レベルまで問うことで、責任のループを完結させるとよい。いわれなき負担に憤る国民の溜飲を下げるための道具ではなく、リスクとリターンのバランスを保つための方策として。

当然、こういうしくみは、ある程度は国際的に共有されていたほうが好ましい。金融市場は国境を越えて広がっているわけだし。国際機関を使うのも一手だろう。

今回の危機をきっかけに、金融機関になんらかの行為規制みたいなものを課していく方向性の議論というのがあるらしいが、基本的にはそういうものはあまり好ましくないと思う。そもそも「正しい方向」がどちらなのかを決める能力が政府にはない、という認識があったからこそ、市場がリードする現在のスタイルが生まれたことを忘れてはいけない。

上記の私の考えは、金融機関に対してなんらかの規制を行うべきだという点では共通だが、行為規制のようなものではなく、リスクとリターンのバランスをとるためのルールづくりを意図しているという点で異なる。「巨大な赤ん坊」が「転んだら危ないから立っちゃだめとベッドに縛り付ける」のではなく、「転んでもひどい怪我をしないように環境を整えたうえで立つ練習をさせる」ほうが「親」として正しい態度だと思えるのだが。

 

【編集部ピックアップ関連情報】

○zara's voice recorder 「CDSという名の核爆弾」2008/10/18
 ベア・スターンズ、フレディマック、ファニーメイ、リーマン・ブラザーズ、
 AIG破綻の後、「核のボタンに匹敵する」と言われているのがCDSである。
 世界的投資家ウォーレン・バフェットは、CDSの事を「時限爆弾 time bomb」
 「金融大量破壊兵器 financial weapons of mass destruction」と呼んで、
 自社バークシャー・ハサウェイによる投資を禁止したと語ったことがある
 (後に実際には投資中であることが明らかになった。2014年までの債務が
 あるという)。
http://zara1.seesaa.net/article/108276159.html


○ウォールストリート日記 「Lehman破綻の代償?」 2008/10/11
 Lehman Brothersが9月半ばに経営危機に陥った際、アメリカ金融当局が
 下した決断は、「救済なし」でした。巨額の損失を抱えて流動性危機に
 陥りつつあった同社を、アメリカ政府の保証なしに救済出来る体力のある
 金融機関は存在せず、158年の歴史を持つ大手投資銀行は、あっさりと
 破綻に追い込まれました。
http://wallstny.exblog.jp/8740729/


○floghipの徒然日記 「FRB,AIGに9兆円融資」2008/09/18
 AIGのCDSは、サブプライム関連の証券化商品の「保険」としても
 重宝され、住宅ブームに乗って急速に事業が拡大した。本業の保険から
 CDSなどの事業へと手を広げた事が、AIGにとって大やけど元に
 なったが、それが、政府の救済を引き出す要因にもなった。
http://floghip.blog.ocn.ne.jp/floghip/2008/09/post_9ffc.html


○山崎元のホンネの投資教室 2008/06/06
 第七十九回 ブックガイド『市場リスク 暴落は必然か』
 経済危機につながりかねない金融危機は、実体経済のショックから
 起こっているのではなく、金融そのものが作り出しているのではないか、
 というのが、本書の著者の問題意識だ。たとえば、アメリカではGDP
 の変化率は明確な縮小傾向にあり、対前年比の変化率で見ると、50年前の
 約半分で、同じことが個人の可処分所得にもあてまるという。景気後退は
 今も起こるが、以前よりも浅くなっている。しかし、たとえばS&P500
 の過去20年間の平均標準偏差は、50年前よりも高くなっている。
 どうやら、金融自体が株価を含めた金融市場の変動を大きくしているのでは
 ないかとブックステーバーは考える。
http://plaza.rakuten.co.jp/isyamazaki/diary/200806060000/


○pesfis日本半陰陽協会 2008/10/17
 「投資銀行バブルの終焉 サブプライム問題のメカニズム」
 著者は東京銀行、チェースマンハッタン銀行での経験を踏まえ、邦銀が
 目指してきた憧れの投資銀行ビジネスの脆弱さを「レバレッジ経営の末路」
 「クレジットという幻想」「バブルは金融の友か」などの独自の観点から
 検証する。
http://blogs.yahoo.co.jp/pesfis/2203095.html

 

 


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