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歴史刻み“現役”で“愛される”建造物は地域の誇り―― 修復・保存、活用が理念のナショナルトラスト運動が日本で育つか

 長らく日本の観光地の発想は、「何もないところに何かを創る」ことだった。

 1987年に発足した竹下内閣の「ふるさと創生事業」(自ら考え自ら行う地域づくり事業)はその一つの象徴といえる。全国約3300の市区町村に1億円が均等に配られた。が、しかしバブル期の真只中という時代的なムードも手伝ってか、現存する歴史的建造物の修復・保存への活用というよりも、全国各地に得体の知れない産物が突如として現れた。調べ出すと切りがないほど「○○日本一」「世界一の○○」というモニュメントなどが生まれたが、哀しいことに、アイデアの元となる切り口の均質さが際立った。これら「ぽっと出」の物語性を無視した観光素材に地元の人たちは誇りを感じることもなく、愛することもなかった。遠来の旅行者のリピータ―化も望むべくもなく、多くのものが瞬く間に風化していった……。

 その後空前のバブル経済が崩壊。その間にも海外旅行が日常化し、エジプトや南米、ヨーロッパなどの世界遺産を鑑賞し、バリ島やモルジブなどのリゾート地に滞在する人が増えたことによって、日本各地に脈絡無く散在する“張りぼて”の観光素材が急速に色褪せ、陳腐化していった。その代わり、ささやかであっても、世界中どこを探してもそこにしかない自然や、歴史、人々の生活の営み、文化に、価値を見出す人たちが増えていった。東京ディズニーリゾートを除く多くのレジャー施設が軒並み苦戦する一方で、「世界遺産をめぐる旅」が、相変わらず人気を博していることも、日本人がこれまでにあまり意識しなかった自分たちの自然の素晴らしさや文化、歴史的な建物への関心の高さを物語っているのかもしれない。
  
 海外を見渡せば、競技場や劇場も改修しながら保存・活用している。十分に歴史的な建造物でありながら、市民や国民に愛され続ける例として競技場や劇場はわかりやすい。サッカーや野球のホームスタジアムでは100年前、50年前の伝説的な名選手の落書きやサインがロッカールームやスタジアムの壁に残っていたり、歴史的な名勝負が行われた場所として地元の人々によって愛され、語り継がれ、誇りとして存在し続けるところも多い。建造物ではないが、100年以上の歴史を刻む欧州や南米のサッカークラブや米国の大リーグのチームなどは地域の誇りとして、過去の歴史や栄光を誇りとして、例え街を離れることになっても応援し続けている。それら文化的な伝統も消滅するとなれば、大変な騒ぎになるだろう。

 劇場だってそうだ。パリのガルニエ宮やローマのオペラ座、黒人文化の象徴的存在としてビリー・ホリデイやジェームス・ブラウンらを輩出したニューヨーク・ハーレムのアポロ・シアターなど、伝説的なシーンが語り継がれ、今もその舞台に立つことは俳優や演奏者にとって何よりの名誉であり、誇りである。これら歴史的な劇場には世界中から観光客が訪れ、劇場の前では畏敬の念を持って見上げる。

 しかし、日本では――。風格があり、個人的にも好きだった東京・銀座の歌舞伎座も取り壊され、最新のガラス張りの高層複合ビルの一角に組み込まれる計画が発表された。大相撲の殿堂「両国国技館」だって、1985年設立で建物の歴史は25年程度。大相撲の長い歴史に比べ、風格を感じさせるまでの歴史を刻んでいない。

 日本では歴史的な名勝負の舞台となったスタジアムや、劇場が“現役”として幾つ残っているだろうか。高校野球の聖地であり、熱狂的な阪神タイガースの名勝負の舞台として蔦が絡まる甲子園球場(改修後も蔦を絡ませる)ぐらいしか思い浮かばない。甲子園球場は関西の人だけでなく、多くの日本人がその存在を誇りに思っているのではないだろうか。2016年の東京五輪招致のために、東京・晴海に約1000億円をかけて新スタジアムが建設されるようだが、前回の1964年の東京五輪のメイン舞台として歴史を刻んだ国立霞ヶ丘陸上競技場は「老朽化」が指摘されているものの、さまざまな歴史を持った稀有なスタジアムであることは間違いない。東京マラソンのゴールシーンでのデッドヒート場面、ラグビーや高校サッカーの聖地として、さらにはW杯をかけたサッカー日本代表の決死の名勝負、名場面などがずっしりと詰まっているスタジアムだ。

 劇場では規模は小さいが、福岡県飯塚市の嘉穂劇場なども存在感が光っている。炭坑夫たちの希望であり、かつては美空ひばりや力道山らスターが公演し、現在でも中村勘三郎さんや椎名林檎さんなど、錚々たるスターが舞台を彩る。多くの人が集い利用し、愛される歴史的建造物といえば、愛媛県松山市の道後温泉の共同浴場「道後温泉本館」(重要文化財)は今も市民や日本全国の観光客に愛され、使用されている。夏目漱石も入った「道後温泉本館」が仮にも取り壊され、無くなったとしたら……と想像すると、文化的な意味でも大きな損失に思えてならない。

 旅の途中で、その街の歴史や文化を物語る古い建造物が今も現役で活躍している姿を目撃したときに、思わず嬉しくなる。「地域の人たちに愛されているんだな」と思う。寺院でも教会でも町家でも土塀でもなんでもいい。そこに歴史を刻むものがあれば、街に住み、通りを歩く人たちの文化の豊かさや香りのようなものが感じられる。逆に、歴史の痕跡や街の記憶が消失した街は、あまりに無機質で寂しい。もちろん、最新施設を建てる努力も必要だろう。しかし、歴史的な建造物を残す努力も同じように必要だと思う。竹下内閣の「ふるさと創生事業」のような地域起こしの予算が近い将来、国から地方に配られることもあるかもしれない。そのときには、日本全国どこにでもある均質的なものを造る以外に、個性ある建造物を修復・保存するための予算を確保する考えも持ち合わせてほしいと思う。

 古くたっていい。多少使いづらくたっていいではないか、と思う。修復を繰り返しながら、そこに誇りとなる歴史、個性ある文化が存在することが、地元からの若者流出を食い止める力となり、また、一度外に出た人間が地元に戻る求心力になるのではないか。政府の人口推計によると、2050年には日本の人口は9000万人になるという。今後40年間で東京都3つ分の人口が消失する計算だ。しかし、消失するのは東京ではなく、そのほとんどが地方の市町村だ。このままでは日本各地で荒廃した寂しい風景が増えてしまうのが目に浮かぶようだ。

 美しい自然景観や貴重な文化財・歴史的な環境を保全し、活用しながら後世に継承していくことを理念として活動している「日本ナショナルトラスト」という団体がある。1968年に設立された市民参加型組織で、白川郷合掌造り民家や旧安田楠雄邸など全国で12件の保護資産を持っている。40年という月日を経ながらその事業規模は小さく、日本でナショナルトラスト運動が根付いているとは現状ではいえない。年間収入は経常ベースで1億円未満。職員は4人という。現在、東京都文京区の民家に事務机を入れて仕事をしている。常時個人・団体会員を募集しているが、大きな飛躍は今のところ見られない。一方、大先輩格である英国のナショナルトラストは年間収入が500億円、繰越金が1000億円規模という。歴史的建造物の保護などを基盤とし、さまざまなブランド戦略による事業収入も莫大で、大きな経済効果をあげている。

 西村幸夫・東京大学教授は「英国のナショナルトラストは1895年に設立されたが40年経った1935年の時点では、今の日本のナショナルトラストの会員数と大差ない状況だった。英国でも大きくテイクオフしたのは、設立から60年以上経ってからで、かなり長い間苦労の段階があった。時間はかかるが、あるところまでくると、『知らない人がおかしい』という雰囲気に変わり突然テイクオフする。そこまで挫けないで頑張って活動を続けてほしい」とエールを送る。

 その日本ナショナルトラストが4月20日に東京国立博物館平成館大講堂で設立40周年記念シンポジウムを開いた。基調講演では京町家の保存・再利用などに精力的に取り組んでいるアレックス・カー氏が登壇した。カー氏は、地方では普通の民家でも価値のあるものが多く存在するが、そのほとんどが「利便性が悪い」「現代的でない」などの理由で日々、壊されている日本の田舎の現状を悲観する一方、欧米に比べ古い建物の修復技術や情報が普及していないことを指摘した。また、日本では「○○記念館」として凍結した形で保存しがちだが、「欧米のようにレストランや宿泊施設などさまざまな用途での活用が望ましい」と話した。最近の動きでは、スターバックスが今年3月、復元ではあるものの神戸市の異人館エリアの「北野物語館」に「スターバックスコーヒー 神戸北野異人館店」を出店するなど新たな動きが出てきた。また、沖縄県石垣島でも古民家を活用したロングステイビジネスを開始しているが、このように、その土地の古い民家や歴史を刻んだ建造物の活用が今後さらに活発化することで、地域活性化にもつながる可能性が広がる。

 地方で生まれ育ち、やがて町を捨て東京に出るのも一つの選択肢。だが、町を離れて数年後、数十年後になって、たぶん客観的に自分の生まれた町を見つめ直す時期が来る。愛着のある建造物や歴史的な文化が残っていればなおさらだ。だが、今も刻一刻と全国で過疎化が進行している。「歴史ある建物を取り壊さず活用する」ことで、新たなビジネスに活路を見出す人が全国各地に現れてほしい、と思う。そのとき、日本の観光もこれまでとは違った局面に様変わりすることだろう。             

 

【編集部ピックアップ関連情報】

○峩々温泉 六代目のひとりごと「アレックス・カー講演 in 由布院」2009/04/21
 景観を損なっている場所は沢山ありますし、すぐには全て直せない。
 わかってはいるけど知らん振りしている。そんなところをひとつひとつ
 整えていこうと思いました。我々が働いていて清々しくなる風景。
 旅人がやすらぎ、幸せになる風景。蔵王に住んでいる者として、
 小さな事からコツコツやっていこうと思いました。
http://gagaonsen.exblog.jp/10867080/


○ナガオカ日記  アレックス・カーの「美しき日本の残像」2008/02/10
 昔の本ですが、とてもわかりやすく今、日本に必要な根本的なことが
 書いてあります。しかも、アメリカ人の視点で。日本人よりも、
 よく日本を分析していて、歴史、社会本としても読めます。
 もっと早くしっていればよかった・・・・・。
http://web.d-department.jp/blog/2008/02/post_447.html


○アレックス・カー氏のサイト
http://www.alex-kerr.com/www_index.html                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                         

 

 


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