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責任は「足して100%」ではない― 再び

同じネタを繰り返すのはどうかという気もするが、同じことでもちがった文脈ではちがった意味を持つかもしれない。というわけで、約2年前に自分のブログで書いた文章(http://www.h-yamaguchi.net/2006/01/post_2467.html)をここに再掲する。手抜きをするつもりではないあたり、ご理解いただきたい。この文章は発売中の「リスクの正体!-賢いリスクとのつきあい方」(バジリコ、2009年)にも入っているが、最近のいわゆる「自己責任論」を巡る議論でも、ほぼ同じことがいえると思う。


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■責任は「足して100%」ではない、と思う

世の中、次から次へといろいろな問題が起こるが、それに対する議論の流れがいつも似ているように思う。なんでなんだろうといつも疑問だったのだが、共通の思考回路はこのあたりにあるのではないか、と思い当たったので、書いてみる。

「責任」というものに対する考え方だ。

よくある議論の流れはこう。まず問題が起きる。たとえばAがBに損害を負わせたとする。するとほぼ同時に「責任」論が浮上する。それも何種類も。

・「Aが悪い。Aに責任がある」
・「いやAにはCという黒幕がいる」
・「この問題を所管する○○省には監督責任がある」
・「この問題は小泉政権の政策がもたらしたひずみだ」
・「Aは○○党の幹部にコネがある。きっと何かある」
・「この問題に関するマスコミの取り上げ方が悪い」
・「そもそもBの自己責任ではないか」
・「これはアメリカの陰謀だ」
・「昔はよかったのに、今の若い者はなっとらん」
・「教育のせいだ。最近の学校はろくなことを教えない」
・「Aはもうけすぎだ。この機会にもっとこらしめるべきだ」
・「世の中にはもっと厳しい状況の人がいる。それをさしおいてBを助けるのはおかしい」

他にもあるかもしれないが、まあこのへんで。よくこれだけあるものだ。何が起きても必ず首相のせいとかアメリカのせいとかにする人がいるのはおかしいが(企業の粉飾決算まで首相のせいにする人がいるが本気なのだろうか)、まあ笑い事ではすまない場合も多い。で、次に起きるのはこのさまざまな意見の間での批判合戦だ。

・「Bの自己責任とかいう人は信じられない」
・「やみくもにAを批判するのは単純。黒幕のCを追及しなければ」
・「Aには賠償能力なんかない。政府がなんとかしろ」
・「なんでも官僚や政府のせいにするのはいかがなものか」
・「ここで世代論を持ち出すのはよせ」
・「マスコミは関係ないだろう」
・「黒幕なんてガセだ」
・「政争の具にするな」

で、こうした論争が泥沼化し、膠着状態に陥って、やがて飽きられ、忘れられていく。で、また同様の問題が起こると。いつもいつも何だよなぁ、と思っていたわけだが。

要するに、「責任」ということばに関する混乱が原因なのだ。

責任には何種類かある。「賠償責任」と「説明責任」の差についてはよく語られるが、このほかにも、「対策をとる責任」とか「真相を究明する責任」とか「結果を甘んじて受け入れる責任」みたいなのもあるだろう。このあたりをごっちゃにすると、話はぜったいにまとまらない。議論をするとき、自分が力点をおく場所と他人が力点をおく場所がちがうことはよくあるが、いろいろな責任がごっちゃになっていると、他人の考え方が理解できなくなる。「なんでそんなこというの!? そっちじゃないだろう重要なのは」となるのだ。どれも重要だ、ですむ話なのに。

で、ごっちゃになっていると、すべてが「責任を負う人が損害を賠償せよ」に結びつく。つまり責任は全部で100%であり、それを誰がどう分担するか、という考え方になるわけだ。説明責任は必ずしも賠償責任にはつながらないし、対策をとる責任は賠償責任を負う人とちがっていることも珍しくないはず。なのに、Cが悪いと主張する人がいると、Aが悪いと主張する人にはAの責任を軽くしようとしているようにみえてしまう。だから論争になるのだ。

で、思うのだが。

責任というやつは、足して100%になるという性質のものではないのではないか。もちろん賠償責任は足して100%だから、ある損害額があってそれを誰がどれだけ分担するかという議論になる。それはいい。しかし、そうでない責任、たとえば説明責任とか真相究明する責任とか事態の発生の下地を作ってしまった責任とか、被害者を助けられたのに助けなかった責任とか、さまざまある責任は、それぞれの人がそれぞれ100%負ってしかるべきではないだろうか。問うべきなのは「誰に責任があるか」ではなく、「この件に関するあなた(私)の責任はどうか」だと思う。

たとえばその昔「一億総ざんげ」みたいなのがあって、指導者の責任を薄めるものだとかいう議論があった。当時の事情は知らないから何ともいえないが、あまり有益ではないと思う。あれは指導者の責任とは関係なく、「一億」の国民すべてが自分の負うべき責任を自覚しようという意味ではなかったか。最近の耐震偽装問題にしても(※2006/01/22追記 そういえば、ライブドアの証券取引法違反問題もこの例にあたるかもしれない)、誰がどれだけコストを負担するかという問題とは別に、誰が何をすべきだったか、これから何をすべきかを議論すべきではないだろうか。もちろん「自分」の問題として。それは偽装した業者が負うべき賠償責任を減らすものではまったくないし、行政を説明責任や対策をとる責任から解放するわけでもない。足せば200%にも300%にもなるはずなのだ、きっと。

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現在の文脈で少し補足しておく。いわゆる派遣切り、格差、ロスジェネ等の問題について、当人たちがほんのわずかでも責任を問われるケースがただの1件もないということはない。同様に、企業や政府、あるいは「逃げ切った世代」の人々、あるいはそれ以外の人々にほんのわずかでも責任を問われるケースがただの1件もないということもない。現実はもっとあいまいで、複雑で、多様だ。本来、常識で考えれば当然のことだ。

もちろん、今議論している人たちご自身の多くは、そうしたことを先刻承知の上だろう。だから彼らは、「誰に責任があるか」というタイトルで、実際には、どちらにより多くの責任があるかを論じているはずだ。それが有益な場合はある。何にどのくらいの対策を講じるかを検討する際に、そうした判断は必須だろう。

しかしどうも、全体を見渡してみると、現状はその段階までいっていないように思う。少なくとも世間では、この一連の議論をA派対B派の争い、つまり「A派100%の人々」と「B派100%の人々」のどちらが勝つかといった目で見ているのではないだろうか。実際、「両派」の間で交わされているものの中には議論というより批判の応酬でしかないものもあり、また各メディアにおいても、実際には行われているであろう、接点を見出そうとする努力が充分に伝えられているようには思えない。

私たちに求められているのは「誰が」するべきかではなく、「何を」するべきかだ。それが大きな問題であればあるほど、自分には無関係とすましていられる人は少なくなるはず。ジョン・F・ケネディの有名なことばに、「国家が何をしてくれるかではなく、国家のために何ができるかを問おう」というものがある。このことばはこの文脈でも有効だと思うが、同時に私たちは、同じような意味で、派遣切りされた人々やロスジェネの人々に対しても、彼らに何かを要求するだけでなく、彼らのために何ができるかをも考えるべきだろう。

同時に、現状がなぜ現状のようになっているのかも考えなければ。派遣会社の中には悪徳業者もあるだろう。派遣業界の一般的な慣行の中に改めるべきものもあるだろう。しかしだからといって、派遣事業の根幹を否定するような論調は明らかに行き過ぎだ。社会から必要とされて生まれ、発展し、社会の中で大きな役割を果たしている。これは、派遣切りされた人々やロスジェネの人々の現状のすべてが自己責任とはいえないこととちょうど裏返しの関係になっている。現状を変えたければ、現状を現状たらしめている要因にも目を向ける必要がある。

繰り返す。責任は「足して100%」ではない。むしろ私たちそれぞれが、自らの「100%」を負っているはずだ。それに気づくことこそが、「どちらが悪い」というゼロサムゲームの堂々巡りから抜け出すための第一歩なのではなかろうか。

 


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