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バレンタインデーに気をつけろ 過激派ヒンドゥー教徒に攻撃されるぞ

 過激派というグループは、世界中によくいる。そして、インドにも。先日終わったバレンタインデーだが、インドでは数日前から、新聞を賑わしていた。

 なぜならば、過激派ヒンドゥー教団体が、「ヴァレンタインデーを祝うカップルを襲う」と警告したからである。毎年、同じようなニュースが出回るが、今年はけっこう話題になっていた。というのも実際に南インドで、ヴァレンタインデー数日前に、彼らによりバー客などが不当に暴力を受けるなどして、襲われた事件が起きたからである。「バーにいるような女は、卑猥であばずれだ」という理由であった。過激派ヒンドゥー教徒は、ヴァレンタインデーを「忌まわしい西洋化を象徴するもの」としている。要は彼らは、西洋化の波によってインド文化が汚されるといったような主張を、叫びまわっているのである。

 インドでも年々、ヴァレンタインデーが「恋人との特別な日」という感じで、祝われるようになってきている。といっても、貧富や教養、経済レベルの差が天と地ほどもある国でのこと。当然それは、富裕層に限った話ではある。クリスマスも同様だが、ネットなどの普及により自分の国以外の文化や国際的な価値観にも普通に触れられるように徐々になりはじめて十数年、少なくとも富裕層の人々にとって「10年前」は、「100年前」くらい昔に感じられる事柄も多いだろう。なにしろ、ほんの十数年前までは、「中世のままの国」と言われてきたインドである。それとともに、やはり日本と同じでインドでも、クリスマスやヴァレンタインデーは、商戦として普及していく道を辿っており、ショッピングモールなどでの、デコレーションは年々、本格的になってきている。

 さて、「ヴァレンタインデーを祝うやつらを襲ってやる」という過激派からの警告だが、言っているだけというわけではない。現実問題として、テロが身近にあるインドである。過激派というのは、ほんとうに何をしでかすか分からない存在だ。デリーでも何かにつけ、「爆弾がしかけられた」というウワサによって、映画館等が数日間営業を中止したりするのが日常であるし、テロリスト警戒からどこへ入るにも荷物検査があるような国では、こういった警告を完全に無視することはできない。「もしも我々の警告にもかかわらず、ヴァレンタインデーを祝っているような者がいれば、我々は確実に彼らを狙う」「ヴァレンタインデーは、明らかに非インド文化である。我々は、どんな形であっても、それを祝うことは許さない」と脅す過激派ヒンドゥー教団体のシュリ・ラーム・セーナー(Shri Ram Sena)リーダーのプラモードは、「バレンタインデーを祝う団体などに対して抗議集会を開くばかりでなく、公共の場でデートをしているカップルをヒンドゥー寺院に連行し強制的に結婚させる」とまで発言。彼はパブ客暴行事件で逮捕されたが、その後釈放されている。

 「西洋化」を一方的に敵視し、しかも暴力的に糾弾するなど、言うまでもないが、言語道断である。気に入らないことがあると、チャブ台をひっくり返し、家族の平和まで奪うオヤジと同じだ。だが決して、インド一般庶民とこれら過激派団体を同一視するわけではないが、現在のインド文化の根底には、「西洋化」に異常なアレルギーを示す何かがあるのは、実は普段から非常によく感じることである。つまり、独自の文化が廃れていくこと等を残念がったりするのとは少し違い、そこに何かとても屈折したものを感じずにはいられないのだ。

 例えば、インド庶民の娯楽の王者、映画。インド映画を見ていて、しょっちゅう出くわす、辟易するシーンがある。それは、「西洋=けしからんもの、淫ら、ふしだら、めちゃくちゃ、軽薄、世も末」というやつだ。つまり、映画の中の西洋人が必ずと言っていいほど、こちらが恥ずかしくなるくらいベタに、ふしだらで、卑猥で、軽薄なのである。例えば、西洋人女性が出てきたとしよう。外国映画祭にでも出品予定の作品でなく、大衆向けの普通のボリウッド映画であれば、95%以上の確率で彼女たちは、まるで娼婦か何かのような描かれ方をされる。深夜まで怪しげな店で酒を飲み泥酔し、下着のような格好で淫らに踊り、翌朝男のベッドで起きると何かしらの軽薄な言動をし、始終高飛車な態度。そして次の日には、他の男の横にいる、というような・・。

 また、こんなのもあった。なぜか初めから「西洋人は、インドをコケにしている」というのが前提としか思えない設定で始まる話で、インド人がビジネスで西洋人に負けるのである。ビジネスでだが、コケにされたわけである。しかしビジネスはビジネスである。しかし、そこで映画がどのような展開になったかといえば、その後にいきなりパーティーか何かでインド人側が「俺たちの文化は、こんなに優れていて、おまえらの文化は屁でもない」みたいなことを、例を挙げて西洋人のビジネス相手に一方的に撒き散らし、周りにいたインド人からは拍手喝采が起き、結果的に西洋人は恥をかく、というものだった。つまり、突然ビジネスから脱却し、一方的な価値観で相手をけなし、周りのインド人(舞台はインド)の拍手喝采で、西洋人を「コケにした」ことに仕立てあげた、というような。しかもこの映画、大ヒットしたのである。

 インド映画でこのような西洋人の描かれ方が出てくるときには、必ず目的がある。それは、「インド文化は、道徳的で慎ましい」ということが言いたい時なのだ。必ずといっていいほど「軽薄で淫らな西洋人」と対照的な、「親孝行で心優しく、不幸でも強く、慎ましい 恥らう少女」とか、絵に描いたような「家庭的で優しく信心深い妻」などが出てくる。そしてそれは、大衆に「インド文化だけが素晴らしい」ということを、植えつけるためなのである。

 ここで、日本のような状況でこれらの事態を考えてはならない。インドは想像を絶する格差社会であり、教育もまともにうけておらず、因習にしばられて生きている人々が大半だ。教育を受け、自分で考え、客観的に物事を判断する力を授けられていない人々をマインドコントロールするのは、簡単なのである。インド映画の中でも必ずヒットする、大衆の大好きな「勧善懲悪」ストーリーを見て、そのベタな話にこちらはア然とするしかないのだが、なんと、彼らは完全に感情移入をして見ているのだ。

 インド文化が素晴らしい、ヒンドゥー教の教えが素晴らしいと思うのであれば、他をコケ落とす(しかも事実以上もしくは事実無根に)ことによる対比でそれを訴えるのではなく、堂々とその素晴らしさだけを描いて訴えるべきである。

 貧しく教育のレベルが高いとはいえない無防備な大衆が人口の大半を占める社会では、実は映画などによるこういった洗脳が一番危険なのではないだろうか。テロリストと大衆は別物であり、普段、大衆はテロリストの被害者である。

 しかし今回のような過激派の行動と、このような洗脳は決して無関係ではないはずだ。過去のイギリス統治時代に蔑視されたことは、事実かもしれない。しかし蔑視で返している限り、結局は同じレベルなのだ。過激派のやることは大衆とは区別されてしかるべきで、同一視して「インド人は・・」などと語るのは絶対に間違っているが、非暴力・不服従で闘ったガンジーに代表されるインドの文化を亡くしたくないのであれば、映画などに見られるあのインド文化礼賛の仕方は、本末転倒である。よく言われることだが、各種のテロ行為を無くす方法は、教育しかないのだろう、とインドにいると思う。テロリストだって、ある種の徹底的な教育で育てられるのだから。

 

 


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